スーパーGTでも馴染みのあるウェッズ
「Weds(ウェッズ)」と聞けば「ホイール」とAMW読者ならば大抵の人が連想するだろう。もしくは、スーパーGTのGT500クラスで参戦している「WedsSport ADVAN GR Supra」を思い浮かべる人もいるかもしれない。2023年シーズンは、第3戦の鈴鹿で見事優勝を飾ったのは記憶に新しいところだ。この株式会社ウェッズの取締役会長である稲妻範彦氏にAMWでは独自にインタビューすることができた。インタビュー当時は代表取締役社長であった稲妻氏に、ウェッズに貫かれている企業理念について語ってもらった。
稲妻範彦氏の愛車遍歴
自動車アフターパーツ業界には、若い頃からクルマ好きであったという人が多いが、稲妻氏も紛れもなくそうしたひとり。昭和36年生まれの稲妻氏の世代は、排ガス規制前のクルマを、新車では無理でも3、4年落ちの中古車を手に入れて楽しんでいた最後の世代でもある。
物心ついた頃からクルマが好きだったという稲妻氏は、中学・高校で周囲の友人たちと違って二輪に興味が湧くことはなく、四輪だけに夢中だったという。当時のトヨタ「セリカ」や「レビン(TE27)」が本当に好きだったそうだ。
「若い頃は、雑誌の『CARBOY』を読んでましたね。自分で作って自分で乗る、みたいな内容の雑誌でしたね。そこまで徹底してはできませんでしたけど、自分でエンジンのヘッドをはぐるくらいのことはしてましたし。もちろん、今のエンジンは無理ですよ。当時のキャブのエンジンでの話です」
青春を懐かしむように語り始めた稲妻氏。ご自身で最初に手に入れたクルマは何だったのだろうか。
「憧れだったセリカに乗りましたね。あと、コロナ2000GTにも乗っていました。それらはすべて昭和50年より以前の型です。昭和51年の排ガス対策前のクルマは、パワーがあったんですね。なので、それ以前のクルマを中心に乗ってました、学生の頃から。
新車でTE27レビンは80何万円だったんですけど、中古市場で100万円以上の値がついてました、あの頃でも。当時はオーバーフェンダーが純正でついていたこともあって人気でした。スカイラインGT-RやギャランGTO、FTO GSRとかもオバフェンがついてましたね。あとチェリーX1R。オバフェンがついていると、スパルタンなイメージだったんですよね」
愛車の足元はレーシングフォージだった!?
最初の愛車であるセリカでは、夜中のワインディングに友達とふたり、もしくはひとりでもよく走りに行っていたそうだ。ひょっとして当時のウェッズのホイールを装着していたのだろうか?
「残念ながら、私はRSワタナベを装着していました。実は、私の先輩がレーシングフォージを愛車に履いていて、やっぱり先輩の手前もあって、同じものを履くのはちょっと遠慮して、走り屋系のホイールで次に来るのは何だということで、私はワタナベを選んだという次第なんです」
レーシングフォージは、日本初のアルミ鍛造3ピースホイールとして1977年に登場し一世を風靡した名品である。当時のクルマ好きの若者にとっては、まさしく憧れのホイールであった。では、一番思い出に残る愛車とは?
「過去、自分が持っていたクルマで一番良かったのは、2代目となるMZ21ソアラですね。27歳くらいのときに中古車で買ったクルマです。当時350万円くらいしたんですけど、独身だったので買えたんですね。このソアラもマフラーを変えてHKSさんの部品を装着してサブコンつけたりとか、いろいろチューニングをしていました。ソアラは峠を走るというより、高速ツアラー的なクルマでしたね。当時のベンツやBMWに負けない走りをコンセプトにチューニングしていました」
このように、学生の頃からクルマへの思い入れの強かった稲妻氏。どのような経緯でウェッズに入社することになったのだろうか。
営業の極意を東北で学ぶ
「18歳くらいになると、カーショップとかに出入りするようになったんですね。そこの店頭でディスプレイしてあったレーシングフォージやウェッズレーシングというホイールを見ているうちに、ウェッズという社名を知るようになりました。雑誌広告でもよく見かけていましたしね。当時は今みたいにインターネットはなかったので、大学の掲示板に求人募集が貼り付けてありました。そこでウェッズの求人を見つけたんです。当時からウェッズスポーツ カローラレビンという名でグループAに参戦していて、そういったイメージもあって入社しました」
走り系のクルマが好きでスポーツ志向の強い稲妻氏、ウェッズに入社してからはサーキットをはじめとして、スポーツ色の強い分野が専門だったのかといえば、実はそうではなかったようだ。
「営業として入社したのですが、もともと地元は仙台で、入社はいまはなき宇都宮営業所でした。そのあと、仙台に転勤して新潟へ、そしてまた仙台に戻って東京に、という感じです。実は雪深いところばかりで営業に携わってたんですね。そうした土地でしたので、年に2回、春と冬の商戦時期がありますから、われわれとしては大きいマーケットなのです。季節商品であるだけに、足を運んで人間関係を構築することが大切になります。通常の大口径のホイールなどはカスタマーがデザインなどで選びますけど、そうした冬の必需品としての商品は、ショップの方々と人間関係を構築した上で、商品ラインナップを揃えていただけるようになるんですね。
たとえば、お得意先の方が人見知りだったりして、最初は打ちとけられずにいたときに、ほんのちょっとしたきっかけで、距離が縮まることがあるんです。それこそ、商品の紹介がきっかけとなったこともありました。そうして足繁くお得意様を訪ねて顔を覚えてもらって仕事に繋がったときには、営業としてありがたい、嬉しいと素直に思いましたね」
自分のアイディアが認められたときの感動
東日本の営業担当として従事していた稲妻氏にとって、当時もっとも思い出に残ったプロジェクトは何だったのだろうか。
「雪の多い地域での営業でしたから、自分が担当しているホイールはスチールホイールだったり、廉価のアルミホイールですとか、思い描いていたホイールとは違うものが多かったですね。仕事と趣味は違うんだなと思いました。
その頃、商品を開発する際の会議に参加したことがあったんです。クレンツェ・ブランドの次期モデルのデザインを決める会議でした。そこでわれわれが提案したデザイン、というか製品化して欲しいと要望したデザインが採用されて、クレンツェ メッシュというホイールが生まれたんですね。販売面でも成功しましたし、嬉しかったですね。
いまでも、市場調査として営業マンがオフ会とかお得意先とか、いろんなイベントに出かけて、ユーザーからの声に耳を傾け、それを形にしています。そういうイベントは、直接一般ユーザーさんからの声を拾えるので、とても大切です」
チャレンジし続けることこそがウェッズのDNAである
では最後に、NAPAC(※注1)の中で、ウェッズはどのように製品をアピールしているのだろうか。
「製品づくりにおいて第一優先として『安心・安全』を前面に打ち出しています。これは弊社が、安心・安全な製品の流通によるアフターマーケットの振興に努めているNAPAC、そしてその1事業部であるJAWA(※注2)に加盟していることから当然のことですし、一般の人たちにこれをどのようにしてアピールしていくのかというのもまた、われわれの使命であると感じています。
アルミホイールに関しては、この安心・安全であることを証明する目的で、各種強度試験による基準をクリアしたものに『JWL(※注3)』と『VIA(※注4)』を刻印として入れていました。
そこに一昨年くらいから、JAWA会員のアルミホイールであることを示す『JAWA』という刻印も入れることを推奨しています。もちろんウェッズとしても新しい全製品に『JAWA』の刻印を入れています。そういったことをどんどんアピールしていくのは、企業としても当然やっていかなければならないでしょう。それがNAPAC、そしてJAWAの一員としていちばん大切なことだと思っています」
(※注1)Nippon Auto Parts Aftermarket Committeeの略。通称「ナパック」
(※注2)Japan Light Alloy Wheel Associationの略。通称「ジャワ」
(※注3)国土交通省が定めた基準、「道路運送車両の保安基準に係る技術基準」に適合しているアルミホイールに表示(鋳出し刻印)
(※注4)日本車両検査協会(第三者機関)でのJWLの裏付けとなる試験に合格し自動車用軽合金製ホイール試験協議会に登録されたアルミホイールに表示(鋳出し刻印)
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ウェッズの企業理念を稲妻氏に尋ねると、「チャレンジ」ということであった。「過去にこだわることなく、新しいものづくりに対してチャレンジを続けていく」ことこそが、ウェッズらしさなのである。
「チャレンジと言うと漠然としているんですけど、販売であろうが製品づくりであろうが、いろんな部署で次に新しいものを考えて、挑戦し続けていくということが大切です。レース活動も製品づくりの実験台にもなってますし、そこで勝つということもウェッズの知名度を更に上げていくことに繋がります。これもチャレンジのひとつだと思っています」
営業時代に稲妻氏が提案したクレンツェ メッシュの成功。これもまさしくチャレンジにほかならない。ウェッズが常にホイール業界のトップランナーである秘密が垣間見えたインタビューであった。