100台生産された後期型のイスレロS
イスレロに乗ったのが「ミウラ」に乗る前だか後だか忘れてしまったが、とにかくそのスムーズなV12と低く籠ったサウンドは、ミウラとは異なる新鮮な印象を僕に与えてくれた。ところで、冒頭で実際には226台作られた話をしたが、225台でカロッツェリア・マラッツィとランボルギーニの契約が終了した後、オランダのレーシングドライバーでありコレクターのドライス・ヴァン・デル・ロフが、彼のためのスペシャルを注文し1970年に納車された。シャシーナンバー6677、エンジンナンバー3018。これが最後、226台目のイスレロである。
ところでイスレロは1968年から1969年にかけて225台が作られたモデルだが、1968年に作られた最初の125台が単にイスレロと呼ばれるモデル。そして1969年に残りの100台として作られたモデルはイスレロSと呼ばれる。
国際ランボルギーニ・レジストリーではGTあるいはGTSとしているが、一般的にはイスレロおよびイスレロSと呼ばれる方が多いようだ。見た目の違いとしてはボンネット上部のエアインテークの拡大と、フェンダーサイドに開けられたエアベントがイスレロSの特徴。というわけで、僕の会社にやってきたモデルは後期型のイスレロSだった。ミウラに比べて相当に地味だったことが、あまり人気モデルにならなかった理由だと思う。
いわゆるスーパーカーブームというものが日本列島を駆け巡ったのは1977年のこと(らしい。当時は日本にいなかった)。しかし、その前に下地を作った並行輸入のショップが大きく飛躍したのはそれより数年前のことで、秋葉原の電気街さながら、現在の環状8号線の瀬田から田園調布にかけてはその輸入車のショップが軒を連ねていた。
田園調布にはチェッカーモータースが、そして等々力には僕のいたローデム・コーポレーションが、さらに瀬田に行くとユニオンや日比谷モータースなどが点在する。他にも数多くのショップがここに集中していた。しかし、スーパーカーブームの火付け役と言えば、何をおいても横浜にあったシーサイドモーターを外すわけにはいかない。
シーサイドモーターに関する詳しい記述は当時社員だった鞍さんの書く「シーサイド物語」に詳しいのでそちらを参照してほしいが、当時の環8はまさに輸入車ショップ街だった。
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