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「好きなのに乗っていいよ」チェントロストリコ・フィアットの取材で「124アバルトラリー」をトリノの街で全開走行【クルマ昔噺】

エアインテークを備えたボンネットはグラスファイバー製。フォグランプも埋込式だった

驚くほど乗りやすかった124アバルトラリーGr.4

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第11回目はフィアットが1973年にヨーロッパ・ラリーでチャンピオンを獲得したワークスマシン「124アバルトラリーGr.4」との出会いを振り返ってもらいました。

当時の館長のご厚意で好きなクルマに乗ることができた!

自動車博物館に所蔵しているクルマに乗せてもらうことなど、ほとんど想像もつかないことだった。世界の自動車博物館シリーズという本を製作するため、トリノのチェントロストリコ・フィアットとその当時呼ばれた博物館を訪れたのは、1978年のこと。

取材のためほぼ1週間トリノに逗留し、ほぼ毎日のようにこの博物館に通い、写真を撮った。残念ながらそれらの写真が日の目を見ることはなく、今はどこに行ったのやらさっぱりわからない。

取材が終了した時、当時の館長から好きなクルマに乗っていいよというとてつもなく有難いオファーを受けた。まあ、通訳を介してだったから初めは何を言っているのかわからず、どういう意味か聞き返したほど。すると、博物館にあるどのクルマでも好きなやつに試乗していいよというのである。しかもじつは最初に選んだクルマはこれではなく、この124は3番目のクルマだったのである。なぜ3番目だったかは、2番目に選んだクルマの話をする時にとっておこう。

さて、「フィアット124」は1966年にセダン、クーペ、そしてスパイダーという一連のシリーズモデルとして誕生したもので、このうちスパイダーだけはショートホイールベースのプラットフォームが使われたモデルだった。セダンは当時のイタリアンファミリーカーらしく四角四面でちっとも面白くないデザインだったのだが、それでも1967年のヨーロッパカーオブザイヤーを獲得し、フィアットの政治力の強さを見せつけた。と言っても当時としては本当にクルマが良かったのかもしれないが……。

さすがイタリアと思わせるのは2種のOHV直4エンジンと並んで、3種類のDOHC直4が用意されていたこと。アルファ ロメオと並んでこの時代のイタリアンセダンは、DOHC当たり前の雰囲気を見せつけていた。とはいえ、まだ気筒あたりのバルブ数は2バルブであった。

ちなみにランチアは同じようなサイズのセダンがV4エンジンを搭載していたから、やはりユニーク。しかしスタイルはアルファ ロメオの「ジュリア」も含めて、当時個人的には全く刺さらないデザインであった。

だが、それとは対照的にこれがクーペやスパイダーになると俄然、華やいだデザインになる。クーペはあのフェラーリ「250GTボアノ」をデザインしたマリオ・ボアノ。そして今回の主役であるスパイダーはピニンファリーナとされているが、実際デザインしたのはその当時ピニンファリーナに在籍していたあのトム・チャーダである。チャーダといえばデ・トマソ「パンテーラ」があまりにも有名だが、いすゞ「MX1600」のデザインも彼によるものである。

ランプレディが設計したDOHCエンジン

さて、その124スパイダー、搭載していたDOHCエンジンが元フェラーリのアウレリオ・ランプレディ設計によるものだから、潜在的なポテンシャルが高く、1969年からはラリーカーとしてデビューしている。当初はプライベートドライバーによるエントリーだったが、アンダーパワーのエンジンにもかかわらず、その優れたロードホールディングや良好な重量バランスで結構な活躍をした。そして1970年からは本格的なワークス活動を開始する。

手始めはイタリアンラリーチャンピオンに挑み、その年のタイトルをランチア「フルヴィア」から奪い取ると、1971年にはフィアット傘下となったアバルトによる本格的なワークス活動が始まった。

車体は90kgも軽量化され、エンジンもさらに強力な1.6Lユニットが搭載された。そして1972年にはヨーロッパラリーチャンピオンのタイトルを収めるのである。

1972年末には車名を「フィアット124アバルトラリー」とし、1973年シーズンも良い結果を残す。1974年シーズンはエンジンが16バルブ化され、そのパワーはついに200psの大台に乗った。

エンジンは1756ccの直4 DOHCをフロントに搭載。最高出力は215ps

そして1975年、再びエンジンに手が加えられ、燃料噴射の助けによりパワーは215psを絞り出すまでに至るのである。この年はハンヌ・ミッコラも124をドライブし、そのナビを務めたのは後にフェラーリのF1チームボスとなる若き日のジャン・トッドであった。

1973年シーズンからすでにマシンはグループ4にホモロゲートされており、215psにわずか930kgと軽い車体は存分に強みを発揮。ワークスのマウリツィオ・ベリーニとフランチェスコ・ロゼッティ組のマシンはフランス、スペイン、イタリア、ユーゴスラビア、ポーランドのラリーで勝利し、見事再度ヨーロッパ・ラリーチャンピオンの座を射止めるのである。

現在もFCAヘリテージハブに展示されている

その優勝マシン、登録ナンバーL69745TOこそ、当時フィアットの博物館、チェントロストリコ・フィアットに展示され、今もステランティスのヘリテージハブというアルファ、フィアット、ランチア、アバルトを集めたミュージアムに展示されているマシンそのもの。そして僕がドライブしたマシンそのものなのである。

クルマは驚くほど乗りやすかった。とにかくギアが何速に入っていようがめちゃくちゃトルクフルだった。トランスミッションは極端なクロスレシオの設定で、そこそこ引っ張ってシフトチェンジしてもエンジン音は何ら変わることがない。隣にお目付け役が乗っているのだが、とにかく「飛ばせ!」としか言わない。こちらも少しは道とクルマに慣れたこともあって、しっかりとアクセルを踏めるようになっていたからそりゃあ速いのなんの。

でも、それほど怖くもなくピュンピュンと走る。なんでもお目付け役に言わせるとトップスピードはせいぜい160km/hだとか。どこかのラリーに合わせたギアレシオなのだろうが、シフトアップしていってもエンジン音が変わらないのはそのためで、ただヴォーン、ヴォーンと同じ音質音量が出てくるだけである。

ヴァレンティノ公園では走りながら写真が撮りたいからとお目付け役に走らせたところ、見事にドリフトを決めてくれた。僕はとてもじゃないが、博物館のクルマでそんな芸当をすることはできなかったけれど、要するに潜在能力はそんなポテンシャルがあるということを見せつけてくれたのである。

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