大きな1/6スケールのモデルカーを1年に2台ペース、すでに約40台制作
現在79歳の山田健二さんは木製モデラー。1年に2台のペースで日夜コツコツ造っているのは、軽くて加工しやすいにもかかわらず強度があるバルサ材をマテリアルとしたフェラーリの模型だ。群馬県の高崎シティギャラリーで開催された個展「フェラーリ 木製モデラー 山田健二の世界」を訪ねてお話を伺ってきた。
70年代、スーパーカーショーを開催する側としてフェラーリに触れた
山田さんのフェラーリ模型は、美しい外観のみならず、インテリアやエンジンにタイヤなどもすべてバルサ材で精巧に制作してあり、塗装してしまうと木製だと分からなくなるほどのハイクオリティぶり。そのため個展では塗装前の段階を見てもらうための無塗装ボディ、無塗装エンジンなども展示していた。
「なにしろエンツォ・フェラーリという気概のある男の生き様に共鳴してしまったんですよ。1898年に生まれたエンツォは1947年にフェラーリ社を設立したので、50歳ぐらいの年齢で起業したわけです。その後、F1に参戦し、1988年に90歳で亡くなりましたが、その後もスクーデリア・フェラーリは休むことなくずっとF1にエントリーしています。そういう熱きストーリーに憧れてしまいました」
フェラーリのことを好きになったのは1970年代中ごろのスーパーカーブーム全盛の頃で、当時勤務していたデパートの催事でスーパーカーショーを開催することになり、赤いフェラーリ「308GTB」と黄色のランボルギーニ「カウンタックLP400」を手配。展示ブースに飾ってみたら、猛牛ではなく跳ね馬の方の美しさや迫力あるサウンドに心底魅せられてしまったのだという。ちなみに、このスーパーカーショーは勢い余って計4回実施したらしいが、最後はブームが終焉してからの開催だったこともあり、大失敗だったそうだ。
仕事をリタイアする前から制作活動の準備を進めていた
そのような催事をきっかけとして、50年近く前にフェラーリに感化された山田さんだが、木製モデラーになったのはもっと後年のことで、デパートの後に勤めた広告代理店にて定年退職を円満に迎えてからのことだった。年齢を記すと61歳のときだ。
「小さい頃から工作や絵を描くのが得意で、よくやっていました。まだプラスチックが一般化していない頃なので、木を削ってソリッドモデルを作るという時代でしたね。飛行機を作ることが多かったです。当時はボール紙を加工したり、いろいろやっていました。中高生のときは鉄道模型にハマっていましたね。社会人になって308GTBに触れたことで、すっかり跳ね馬好きになってしまい、それからはフェラーリを題材としたタミヤ、フジミ、ハセガワのプラモデルを作るようになり、売っている商品は全部網羅しました。でも、なんか味気なくって、その後、帆船模型を作るようになりました。帆船は娘3人のために気合いを入れて作ったりもしましたが、誰ひとりもらってくれなかったので、いまでも家にあります」
「そういうことを経て、バルサ材でフェラーリの模型を作るようになったのは仕事をリタイアしてからで、エンツォに憧れるようになってから25年も経ってからのことでした。61歳になってから突然“マテリアルはバルサ材だな”と思ったのではなく、定年退職する前から“木で作ろう、バルサ材を使おう”と思っていました。いきなりではなく、準備していたわけです」
設計図を作ってからフルスクラッチビルド&塗装
既存のパーツは使わず、フルスクラッチビルドなので、金属で作ってもバルサ材で作っても苦労は大差ないが、まず設計図を作成してから作業を進めているため、フェラーリの関連書籍や写真などの資料集めが大変なのだという。そして、技術的に難儀なのはパーツを塗装することで、仮組みし、各部のおさまりを確認してから再びバラして塗っているため、ひと苦労とのことだった。
「自分の手間以外で必要なコストは、バルサ材代、カッター代、塗料代、といった感じですが、1台あたりでタミヤのスプレーを12~13本使うので、それなりの金額になります。ボディカラーが赤の場合は、イタリアンレッドを使っています。1回吹いて磨いて、という作業を繰り返しながら色をのせており、5回吹いた赤よりも10回吹いた赤のほうが深みがあります。ミハエル・シューマッハのことが好きだったので、一番最初に作ったのは2000年ぐらいのときに彼がドライブして優勝したフェラーリのF1マシンです。F1マシンは2004年ぐらいまで作りましたね」
フェラーリの輪を通じて実車も所有することに
最初、1/8スケールでボディの外側だけを作っていたとのことだが、なんとなく迫力が足りず、1/5スケールにしてみたら今度は大きすぎだったので、数台作るうちに1/6スケールに落ち着いたそうだ。細かい部分までバルサ材で作るので、それなりの大きさが必要なのだ。1/5スケールだと1年に1台しか作れないが、1/6スケールだと1年に2台作れるので、そのペースが自分に合っているとも話してくれた。現在までに40台ぐらい作っている。
「初期の頃は、ある程度のところまで作って、それを大手ミニカーメーカーに持参し、先方の偉い人や開発スタッフの方々に良し悪しを評価してもらいました。褒めてもらったりして自信がついたので、本格的に作ることにしました。この訪問によって、ミニカーメーカーとの輪が広がりましたね。そして、最初からいきなり個展を開催することはできなかったので、4~5年分のストックを溜めておいて、それを皆さんに個展というスタイルで披露しました。本物のフェラーリを所有しているオーナーの方々もたくさん来てくれて、仲よくなって愛車を見せてくれるようになり、こちらの輪も広がりました」
と語る山田さんだが、そんなフェラーリの輪を通じて、ついに実車のオーナーになる機会が訪れたという。
「ツーリングにもお邪魔するようになり、軽井沢のカフェに行ったときに、ディーノを買う人がフェラーリ328GTSを手放すので、それを買ったらどう? という話が出て、65歳のときに実車のオーナーになりました。エンツォ・フェラーリが生きていた時代に生産されたクルマだけをバルサ材で模型にしていますが、私が購入した328GTSは1987年式なので、エンツォが存命中にデリバリーされたクルマです。3月28日生まれなので、それも何かの縁ですね」
まだまだお元気だが、山田さんは傘寿を迎えた身であり、今回のような規模での個展は最後になるかもしれないとのことだった。とはいえ、エンツォ・フェラーリと同じ90歳まで頑張るとも話してくれた。ならば1年に2台ペースの制作を持続できればあと20台以上、2年ごとに開催している個展のほうはあと5回ほど実施できる計算なので、また高崎シティギャラリーを訪問したいと思う。