1949年に作られたアフトヴェロ-BMW S1とは
東西冷戦集結の象徴となった1989年11月のベルリンの壁崩壊。西ドイツと東ドイツ(当時)との間で両国の市民が国境を自由に行き来できるようになり、トラバントやヴァルトブルクなどの「東ドイツの国民車」が続々と西ドイツの路上を走るようになったが、この旧弊なヴァルトブルクを生産していたのが、テューリンゲン州アイゼナハにある東ドイツの国営企業「アイゼナハ・モトーレンヴェルク」。じつはこの工場、かつてはBMWのアイゼナハ工場だった施設である。
1945~51年までソ連軍政下のアイゼナハ工場も「BMW」を名乗っていた
1930年代にはすでにドイツを代表する高品質な自動車メーカーとして知られ、またミッレ・ミリアをはじめとするモータースポーツの世界でも活躍していたBMWだったが、1939年に勃発した第二次世界大戦によって市販車の開発は停滞。戦時中は軍用車両や軍用機エンジンなどの生産に追われることとなる。
そして1945年、ナチス・ドイツの敗北により終戦。ドイツは国土の西半分がアメリカ、イギリス、フランス、東半分がソヴィエト連邦(ソ連)の占領下となり、その後それぞれが西ドイツと東ドイツというふたつの国となり、その体制はドイツが再統一を果たす1990年まで続くわけである。
と、ここで前述のテューリンゲン州のBMWアイゼナハ工場の話。BMWは1928年からこのアイゼナハ工場で乗用車を生産していたのだが、1945年の終戦によりテューリンゲン州はソ連占領エリアとなったため、工場の施設は在独ソ連軍政府(SMAD)が保有することとなった。
ドイツの敗戦からわずか半年後、戦前型の「321」や「327」の再生産から稼働を再開したアイゼナハ工場であるが、事業の主体はBMWではなくあくまでも在独ソ連軍政府。その会社の名は「Sowjetische AG Maschinenbau Awtowelo, Werk BMW Eisenach」で、直訳すれば「アフトヴェロ機械製造ソヴィエト会社・BMWアイゼナハ工場」となろうか。この時期、1945年から1951年にかけて同工場で作られたのが、「アフトヴェロ-BMW」とよばれる東ドイツ製のBMWである。ちなみにこの時点で西側のBMWは「敗戦国の一企業」という立場ゆえ、アフトヴェロ-BMWの生産を始めた在独ソ連軍政府に対して商標権などの交渉を行う権利はなかった。