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トヨタ「セリカターボGr.5」を手掛けたシュニッツァーのファクトリーに潜入! 撮影し放題のおおらかな時代でした【クルマ昔噺】

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TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁

1979年に日本上陸!

工場の中も秘密はなかったのか撮り放題。まあ、今じゃ考えられないけれど、当時はそれだけおおらかだったということだろう。ドイツではポルシェ935という、ほぼ超えられない壁のような存在の敵がいたこともあって戦績は振るわなかったが、それ以上にトヨタ製エンジンに関する勉強が足りなかったのか、壊れまくって満足な結果が出なかった。

我々が取材に行った1978年に創業者の一人、ヨーゼフ・シュニッツァーがアウトバーンで交通事故により死去した年でもある。トップマネージメントがいなくなったことで、結果を出せなかったともいえるかもしれない。

1979年にはトムスの舘 信秀氏によって日本に輸入され、里帰りを果たす。そして富士スーパーシルエットレースに参戦し、同年9月のインター200マイルレースで念願の初優勝を果たすことになる。このクルマはその後1983年頃まで日本国内でレースに参戦していたようであるが、その後の行方は要として知れない。というか、どうやら廃棄されてしまったようである。レーシングカーの悲しい運命を辿ったというわけだ。

ところが今年、クラシックカーの祭典であるノスタルジック2daysというイベントに行ってみると、なんとインター200で優勝したマシンそのもののカラーリングのセリカターボが展示されているではないか。だが近づいてみるとそれはレプリカ。正札850万円をつけて販売されていたのである。

ただ、レース出場には時代もかけ離れているし、果たして中身がどうなっているかはその時点では全く不明であった。ただ、レースからリタイアして40年も経つというのに、忠実なレプリカが製作されるあたり、当時の影響力というか人気のほどがわかるというものである。

ちなみにシュニッツァー自体は2020年にレース活動をやめ、門戸を閉めてその歴史の幕を閉じた。

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  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 幼いころからクルマに興味を持ち、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾る。 大学在学中からレースに携わり、ノバエンジニアリングの見習いメカニックとして働き、現在はレジェンドドライバーとなった桑島正美選手を担当。同時にスーパーカーブーム前夜の並行輸入業者でフェラーリ、ランボルギーニなどのスーパーカーに触れる。新車のディーノ246GTやフェラーリ365GTC4、あるいはマセラティ・ギブリなどの試乗体験は大きな財産。その後渡独。ジャーナリスト活動はドイツ在留時代の1977年に、フランクフルトモーターショーの取材をしたのが始まり。1978年帰国。当初よりフリーランスのモータージャーナリストとして活動し、すでに45年の活動歴を持つ。著書に三栄書房、カースタイリング編集室刊「世界の自動車博物館」シリーズがある。 現在AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)及び自動車技術会のメンバーとして、雑誌、ネットメディアなどで執筆する傍ら、東京モーターショーガイドツアーなどで、一般向けの講習活動に従事する。このほか、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」で自動車関連出品の鑑定士としても活躍中である。また、ジャーナリスト活動の経験を活かし、安全運転マナーの向上を促進するため、株式会社ショーファーデプトを設立。主として事業者や特にマナーを重視する運転者に対する講習も行っている。
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