レーシングカーの悲しい運命を辿ったセリカターボ
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第12回目はシュニッツァーが手掛けたGr.5マシンのトヨタ「セリカターボ」との出会いを振り返ってもらいました。
工場にはトヨタ製のエンジンが無造作に転がっていた
今を遡ること45年前。つまり1978年、どういういきさつだったかは忘れたが、シュニッツァーを取材した。シュニッツァーと言えば、ヨーゼフとヘルベルトというシュニッツァー兄弟が1967年に設立したレース車両の開発会社。BMWのチューニングで一躍有名になったブランドである。しかし、シュニッツァーに赴いたのはBMWの取材ではない。当時彼らが開発していたグループ5仕様のトヨタ セリカターボの取材であった。
シュニッツァーが居を構えていたのはドイツのフライラッシングという小さな町。ドイツと言ってもオーストリアとの国境まで数キロというか、いわゆる国境の街そのものである。果たして、そのとき誰が出迎えてくれたかは忘れたが、取材の申し込みをとても温かく受け入れてくれて、出来立てだったのかは忘れたが、クルマの写真を撮るのに堂々と街中に押し出して自由に撮影させてくれた。雑然とした工場の中にはトヨタ製エンジンのブロックやらヘッドやらが無造作に床に転がっていて、正直なところ「大丈夫か? ここ」と思ったものである。
F1キャリアを持ったドライバーが乗ったマシン
赤いローデンシュトゥックカラーのマシンは1978年シーズンにロルフ・シュトメレンがドライブしたもの。その前年は濃紺の同じくローデンシュトゥックスポンサーのマシンで、ドライバーはハラルド・アートルだった。シュトメレンもアートルもどちらかと言えば地味なドライバーだったが、二人ともF1のキャリアを持ち、アートルはヘスケス、シュトメレンはブラバムに乗った経験を持つ。
調べてみたら、アートルはオーストリアのZell am Seeというところに生まれ(ここはポルシェデザイン発祥の地である)、学校はあのヨッヘン・リントやニキ・ラウダ、さらに現在はレッドブルのボスとして活躍しているヘルムート・マルコなどと一緒だったそうだ。1976年にラウダが事故を起こした時、真っ先に助けに行ったのもうなずける。
1979年に日本上陸!
工場の中も秘密はなかったのか撮り放題。まあ、今じゃ考えられないけれど、当時はそれだけおおらかだったということだろう。ドイツではポルシェ935という、ほぼ超えられない壁のような存在の敵がいたこともあって戦績は振るわなかったが、それ以上にトヨタ製エンジンに関する勉強が足りなかったのか、壊れまくって満足な結果が出なかった。
我々が取材に行った1978年に創業者の一人、ヨーゼフ・シュニッツァーがアウトバーンで交通事故により死去した年でもある。トップマネージメントがいなくなったことで、結果を出せなかったともいえるかもしれない。
1979年にはトムスの舘 信秀氏によって日本に輸入され、里帰りを果たす。そして富士スーパーシルエットレースに参戦し、同年9月のインター200マイルレースで念願の初優勝を果たすことになる。このクルマはその後1983年頃まで日本国内でレースに参戦していたようであるが、その後の行方は要として知れない。というか、どうやら廃棄されてしまったようである。レーシングカーの悲しい運命を辿ったというわけだ。
ところが今年、クラシックカーの祭典であるノスタルジック2daysというイベントに行ってみると、なんとインター200で優勝したマシンそのもののカラーリングのセリカターボが展示されているではないか。だが近づいてみるとそれはレプリカ。正札850万円をつけて販売されていたのである。
ただ、レース出場には時代もかけ離れているし、果たして中身がどうなっているかはその時点では全く不明であった。ただ、レースからリタイアして40年も経つというのに、忠実なレプリカが製作されるあたり、当時の影響力というか人気のほどがわかるというものである。
ちなみにシュニッツァー自体は2020年にレース活動をやめ、門戸を閉めてその歴史の幕を閉じた。
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