期待と不安の中、菅生で出会ったR32 GT-R
菅生で行われたジャーナリスト向けの試乗会ですぐさま買うと決めたBNR32との出会い。その後グループAという最高峰のレースでR32「スカイラインGT-R」を駆り、プライベートでは5台の新車を乗り継いだ。「ドリキン」と呼ばれ今や世界に多くのファンを抱える土屋圭市氏にとってR32GT-Rとはどのような存在だったのだろうか?
(初出:GT-R Magazine 172号)
4WD=アンダーという今までのセオリーを覆した
小学生のころテレビで見た日本グランプリに衝撃を受け、土屋圭市氏がレーシングドライバーを目指したというのは、あまりにも有名な話だ。高橋国光氏が華麗なドリフト走行を見せたハコスカGT‒R。土屋氏の「GT‒R」はハコスカで時代が止まっていた。その後R31まではスカイライン、GTSだよね、という程度にしか関心もなかったようだ。
だからこそBNR32デビューの年、1989年に菅生で行われた試乗会へ行くときには、期待と不安がない交ぜの状態だった。しかし、
「乗った瞬間から衝撃的どころじゃないでしょう。何だこれ? それまでは4WD=アンダー。それがアンダーの出ない4WDなんだから。今までは4WDはアンダーが消えるまで待つというのが世界のセオリーだったけど、それが横になってもアクセル踏めって。しかもあのスタイリングでしょう。イカツイんだけどイカツクない。美しさがあるよね、あのスタイリングはさ」
すぐさまその場にいた日産自動車・車両実験部の加藤博義氏に「これ1台買う」と話したという。当時から『ベストモータリング』を通じて毎月世界中の新車に触れていた土屋氏。その中でR32 GT‒Rは、「何だこれ?」を連発するほどの存在。
「アンダーが出ない4WD。FRのように乗れて立ち上がりで4WDになるっていうさ。速いしFRだし、こんなクルマ世の中にないだろう。そこだよね」
コースを走るとブレーキは2周でフェードした。しかし土屋氏にとってはどうでもいいことだったのだ。
「その場にもいたよ、フェードして何がいいんだって言う先生が。だけど俺らチューニング業界の人間からすると、このスペックでこのキャリパーとローターは普通の人がサーキットを走らなければ十分だよ。そんなものローターもキャリパーも換えればいい。サーキットをガンガン走るなら足もブレーキも換えるのが当たり前の世界だから。ベースのスペックがすご過ぎて。あのベースはもう宝だよ」
この場で注文したR32が納車されるとすぐさま5000kmの慣らしを敢行した。
「たしか3日も掛からなかったと思う。中央道と関越道を使い、最初は3000rpm。このときは5速のみ。3500rpmに上げたら4&5速の繰り返し。4000rpmからは3&4&5速。ギアに負担を掛けないよう走り続けたよ」
手に入れた喜びよりも、このじゃじゃ馬は俺しか乗れないだろうという気持ちのほうが強かったという。あのギクシャクした電子制御は普通のレーシングドライバーには乗れないだろう、と。当時グループA車両は今のレーシングマシンのように市販車と別物ではなかった。ベース車両をチューニングせよ、というのがルール。裏を返せば愛車をグループAマシンに近付けることができる。その楽しみがあったと土屋氏は語る。
「それで気付いたら5台乗り継いでた。自分が5台も新車で購入するとは思わなかったね。67年間生きてきて、これだけ好きなクルマに乗ってきて、2台以上乗ったのはR32 GT‒RとNSXとAE86だけ。しかもR32は5台だから」
なぜそこまで乗り替えたのか。それはボディがヤレてしまうからだ。サーキットまでの移動の足として、またレースや取材がない日には毎晩「エンドレス」のブレーキテスト。ひと晩にガソリンを3回入れることもあったという。1年で10万km走っていたというのだから、ボディが音を上げるのも仕方がない。土屋氏は単純計算でR32で50万km以上走ったことになる。それでも途中で飽きることは一切なかった。走って楽しくてその気にさせるのはいつもGT‒Rだった。