人生を賭けたレースがグループAだった
プライベートでR32に乗っている1991年にグループAでGT‒Rに乗るチャンスが訪れた。富士スピードウェイでのオーディション当日は雨。なんと土屋氏はCカーより速いペースでコースを駆け抜けた。アンダース・オロフソンの駆るCカーを100Rでアウトから抜き去ったのだ。その走りが認められ、チームタイサンで高橋健二氏とコンビを組むことになった。
「グループAでGT‒Rに乗れるのは選ばれた人間のみ。日産に認められたドライバーにしかクルマを出してもらえないんだよ。星野一義さんや長谷見昌弘さんと戦える。一部のドライバーの特権。優越感だね。高橋健二さんだからクルマを出した。俺はオマケなわけだよ。でもそれでも乗れるという充実感。そこでいい走りさえすれば、このクルマで良い成績を出せば俺の未来は明るいぞと思った」
1年目は少し遠慮がちだった。土屋氏が最大限意識して目標にしていた星野一義氏の走りに魅了された。
「レースで前に星野さんが走っていると見とれちゃってね。ここでインに入ったら俺抜けるよなと思いつつも、でもこの走りを見ていたいって」
しかし2年目は違った。土屋氏が「神様だ」という高橋国光氏とのコンビとなる。新品タイヤを使わせてくれて、シャシーのテストも任せてくれた。普通ならあり得ないことだが、すべて自由にやらせてくれた。土屋氏はとにかく「この人に名前を覚えてもらいたい。この人が欲しいと思うドライバーにならないとこの先はない」と思って走ったという。
「もう2年目は星野一義上等! ニュータイヤを使うことでもっとうまくなる。GT‒Rの使い方がそれまで80%くらいしかわかっていなかったのが、自由にやらせてもらうことで90%くらいまでになるわけじゃない。それで2〜3km/hコーナリングの進入速度が上げられて、それが結果に結びつく。初めて勝ったときよりも国さんを表彰台に上げられたときのほうがうれしかったね」
普段からR32 GT‒Rに乗っている土屋氏は「グループA車両だって俺が一番扱えるだろう。BS(ブリヂストン)星野一義上等だよ、ヨコハマでやっつけてやる」と思っていた。
「だからグループAが終わった後は、正直もうどうでもいいな、これ以上自分が熱くなれるレースってないだろうな。グループAって本当にそういうレースだった。乗れるだけで幸せだったよ」
R32がドライバーとしても土屋氏を成長させてくれた。「そりゃそうだよ、あんなじゃじゃ馬ないからね」と語る。
R32が土屋圭市を一流に押し上げた
今あらためて振り返り、土屋氏にとってBNR32とはどんな存在なのか。
「俺を一流にしてくれたクルマ。R32と出会っていなければ今の土屋圭市はなかったと思う。レースではそれまでチームから『乗せてやる』だったのが『乗ってください』に変わった。R32で明らかに変わったよね」
R32は特別だよ本当に、と土屋氏は微笑む。どれだけプライベートで走り込んでも楽しさは変わらない。身銭を切って5台乗り継ぎ、どこへでもGT‒Rで移動した。レースでは選ばれた人間しか上がれない土俵で一流ドライバーたちとヒリヒリするような戦いを繰り広げた。当時の土屋氏にとって、R32 GT-Rは身体の一部だった。だからこそ思いは強い。
R32 GT‒Rによって人生が大きく開かれた人は多いことだろう。土屋氏もそのひとりであり、その土屋氏の影響を大きく受けた若者も多数いる。GT‒Rから始まる幸せの連鎖反応は、これからも長く続いていくのだと感じている。
(この記事は2023年8月1日発売のGT-R Magazine 172号の記事を元に再編集しています)