チューナーの心に残る厳選の1台を語る【ナカネレーシングデザイン中根代表】
若かりし頃、ある人の粋な計らいで日産「スカイラインGT-R」を維持し続けられた。その出来事で揺るぎない想いが確立していった。恩人から受けた厚意を今度は自分が惜しまずに提供する。特別なクルマだからこそ、アドバイスにも心がこもる。GT-Rに愛情を注ぐナカネレーシングデザイン中根代表のインタビューをお届けしよう。
(初出:GT-R Magazine165号)
免許取得後1年も経たずにRの魅力に惹かれていった
つねにユーザー目線で接して、ひとりひとりの好みや価値観を反映させたGT-Rライフの実現をサポートする「ナカネレーシングデザイン」の中根 大代表。とくに若いGT-Rオーナーにとっては頼りになる人物で、ユーザーと絶大なる信頼関係を築いている。
中根代表の免許取得は20歳と、GT-R専門店のオーナーとしては遅めだ。しかも父親に促されて、仕方なく取りに行ったという。
「実家は祖父の代から鈑金塗装業を営んでいて、小さいころからクルマに囲まれていました。父親もクルマ好きで家には家族用のワンボックスとは別に趣味のクルマがあり、たまに乗せてもらえるんです。たしかフェアレディのSR311とかS30型のZとか、乗りたくても自分からせがんではいけない特別なクルマだということが子ども心にもわかっていました。そんな環境にいながら18歳のころはまったくクルマに興味がなかったのです」
野球少年からJリーグの開幕に伴ってサッカーに目覚めて、小学校の5〜6年生ではクラブチームが運営するジュニアユースの入団テストに合格するためにサッカー漬けの日々を送る。しかし努力が報われずにサッカーはそこで終了に……。
中学時代には一転してレーシングカートにハマり、父親とともに国内B級ライセンスを取得してフォーミュラカートのF100でレースに参戦。15歳以下での出場は日本では初めてとあって雑誌等に取材されるも、デビュー戦はスタート直後の富士の100Rでエンジンをカブらせエンスト。再始動できずにあっけなくリタイヤとなった。
満を持して再び挑んだ富士のレースではストレートを空気抵抗低減のために寝そべって走っていて1コーナーを確認できずにノーブレーキで突っ込み、宙を舞い墜落。話題を集めたにもかかわらず、そのアクシデントでフォーミュラカートからの撤退を決断する。富士をたった2回走ったきりだ。
「ちょうど免許を取るころは大学生で、今度は電動ラジコンカーに夢中でした。行きつけのサーキットは電車で行けたしクルマの必要性を感じませんでした。それでも父親にしつこく免許を取れとせっつかれて、取りに行ったのが20歳。初めてのクルマは初期型のユーノス ロードスターでした。ここでやっとクルマの魅力に気づき始めたんです」
タイミングベルトが破損して廃車となったロードスターの次にはR32型「スカイラインGTS-tタイプM」の4ドアに乗り替える。そのころ父親はチューニングが施された約600psのBNR32を購入。決して触らせてもらえなかった。
「どうしてもRに乗りたくて、富士スピードウェイで対決して勝てたら乗せてくれるだろうと考え特訓を始めたんです。大学生だから時間があるので月曜から1日2本のスポーツ走行をこなし、富士のゲート前で車中泊して、5泊目の土曜に父親と対決という段取りをつけました。今思えば無茶な話ですが、当時は部活の合宿のノリで真剣に取り組み、日々手応えも感じていて勝てる気でいました。冷静に考えればタイプMはブーストアップ程度ですから無謀としか思えません」
いよいよ決戦の土曜日を迎え、父親もR32で富士にやってきた。しかし前日までの練習で酷使し過ぎたのか、タイプMはコースインして1本目のストレートでエンジンブロー。コンロッドが折れてブロックに穴を開けてしまった。赤旗中断となり中根代表の強行合宿はそこで終了。タイプMは御殿場のディーラーで処分してもらう。帰り道、あまりに力を落とした息子を見かねたのか、父親から憧れのR32の運転を許された。かれこれ20年近く前の出来事だ。
「20歳で免許を取ってまだ1年くらいでしたし、強化クラッチも初めてでエンストしまくりです。それでも嫌になるどころか、刺激的なポテンシャルにみるみる惹かれていって、自宅に着くころにはチューニングされたR32の強烈なキャラクターに完全にやられました」
そんな光景を父親は同じクルマ好きとして頼もしく、それでいて誇らしく感じたはずだ。息子の心境が痛いほどわかる。だからこそ「譲る」と言い放ったのだろう。親子というよりもGT-Rを愛する同志としての男気だと思う。
「もちろんタダで譲り受けたわけではありません。お金は払いました。だからこそ正真正銘の愛車であって死ぬほどうれしかったです」