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「受けた恩義は忘れない」同じ「GT-R」乗りとしてユーザーの愛車を最大限サポートするのが「ナカネレーシングデザイン」のポリシーです!

中根代表

中根 大 代表。1982年東京都板橋区生まれ。ナカネレーシングデザインを立ち上げてから今日まで、作業はすべて自分ひとりでこなしている。ユーザーとしつこいくらいにディスカッションを繰り返し、妥協なしの理想的なGT-Rに仕上げるので、とても他人 には任せられない。仕事が立て込めば待ってもらう。時間はかかるが安心には代えられない。この態勢を頑なに貫いている

チューナーの心に残る厳選の1台を語る【ナカネレーシングデザイン中根代表】

若かりし頃、ある人の粋な計らいで日産「スカイラインGT-R」を維持し続けられた。その出来事で揺るぎない想いが確立していった。恩人から受けた厚意を今度は自分が惜しまずに提供する。特別なクルマだからこそ、アドバイスにも心がこもる。GT-Rに愛情を注ぐナカネレーシングデザイン中根代表のインタビューをお届けしよう。

(初出:GT-R Magazine165号)

免許取得後1年も経たずにRの魅力に惹かれていった

つねにユーザー目線で接して、ひとりひとりの好みや価値観を反映させたGT-Rライフの実現をサポートする「ナカネレーシングデザイン」の中根 大代表。とくに若いGT-Rオーナーにとっては頼りになる人物で、ユーザーと絶大なる信頼関係を築いている。

中根代表の免許取得は20歳と、GT-R専門店のオーナーとしては遅めだ。しかも父親に促されて、仕方なく取りに行ったという。

「実家は祖父の代から鈑金塗装業を営んでいて、小さいころからクルマに囲まれていました。父親もクルマ好きで家には家族用のワンボックスとは別に趣味のクルマがあり、たまに乗せてもらえるんです。たしかフェアレディのSR311とかS30型のZとか、乗りたくても自分からせがんではいけない特別なクルマだということが子ども心にもわかっていました。そんな環境にいながら18歳のころはまったくクルマに興味がなかったのです」

野球少年からJリーグの開幕に伴ってサッカーに目覚めて、小学校の5〜6年生ではクラブチームが運営するジュニアユースの入団テストに合格するためにサッカー漬けの日々を送る。しかし努力が報われずにサッカーはそこで終了に……。

中学時代には一転してレーシングカートにハマり、父親とともに国内B級ライセンスを取得してフォーミュラカートのF100でレースに参戦。15歳以下での出場は日本では初めてとあって雑誌等に取材されるも、デビュー戦はスタート直後の富士の100Rでエンジンをカブらせエンスト。再始動できずにあっけなくリタイヤとなった。

満を持して再び挑んだ富士のレースではストレートを空気抵抗低減のために寝そべって走っていて1コーナーを確認できずにノーブレーキで突っ込み、宙を舞い墜落。話題を集めたにもかかわらず、そのアクシデントでフォーミュラカートからの撤退を決断する。富士をたった2回走ったきりだ。

「ちょうど免許を取るころは大学生で、今度は電動ラジコンカーに夢中でした。行きつけのサーキットは電車で行けたしクルマの必要性を感じませんでした。それでも父親にしつこく免許を取れとせっつかれて、取りに行ったのが20歳。初めてのクルマは初期型のユーノス ロードスターでした。ここでやっとクルマの魅力に気づき始めたんです」

タイミングベルトが破損して廃車となったロードスターの次にはR32型「スカイラインGTS-tタイプM」の4ドアに乗り替える。そのころ父親はチューニングが施された約600psのBNR32を購入。決して触らせてもらえなかった。

「どうしてもRに乗りたくて、富士スピードウェイで対決して勝てたら乗せてくれるだろうと考え特訓を始めたんです。大学生だから時間があるので月曜から1日2本のスポーツ走行をこなし、富士のゲート前で車中泊して、5泊目の土曜に父親と対決という段取りをつけました。今思えば無茶な話ですが、当時は部活の合宿のノリで真剣に取り組み、日々手応えも感じていて勝てる気でいました。冷静に考えればタイプMはブーストアップ程度ですから無謀としか思えません」

いよいよ決戦の土曜日を迎え、父親もR32で富士にやってきた。しかし前日までの練習で酷使し過ぎたのか、タイプMはコースインして1本目のストレートでエンジンブロー。コンロッドが折れてブロックに穴を開けてしまった。赤旗中断となり中根代表の強行合宿はそこで終了。タイプMは御殿場のディーラーで処分してもらう。帰り道、あまりに力を落とした息子を見かねたのか、父親から憧れのR32の運転を許された。かれこれ20年近く前の出来事だ。

「20歳で免許を取ってまだ1年くらいでしたし、強化クラッチも初めてでエンストしまくりです。それでも嫌になるどころか、刺激的なポテンシャルにみるみる惹かれていって、自宅に着くころにはチューニングされたR32の強烈なキャラクターに完全にやられました」

そんな光景を父親は同じクルマ好きとして頼もしく、それでいて誇らしく感じたはずだ。息子の心境が痛いほどわかる。だからこそ「譲る」と言い放ったのだろう。親子というよりもGT-Rを愛する同志としての男気だと思う。

「もちろんタダで譲り受けたわけではありません。お金は払いました。だからこそ正真正銘の愛車であって死ぬほどうれしかったです」

1台すべてをバラすことで仕組みや名称が身に付いた

しばらくすると父親は新たにBNR34を購入。一家に2台もGT-Rがあることに加え、サーキットでの出来事などを詳細にまとめれば、中根代表の当時からのバイブルである『GT-Rマガジン』の看板企画「あなたのR見せてください」に掲載されるだろうと考えた。分厚いレポートとともに掲載希望の切実な思いを編集部宛に郵送。すぐに編集部から取材に行きたいとの返信があった。驚きとうれしさで舞い上がってしまい、すぐに父親に報告した。「それは一大事だ」とふたりで天にも昇る心地になって取材を快諾する。

中根代表のGT-R熱はますますエスカレートして、毎週末は決まってニスモのショールームに入り浸っていた。筑波サーキットでの走行会の情報が入るや否や、真っ先に参加を希望。当日は父親のR34とともに楽しんだ、となる予定だったが、まさかのエンジンとトランスミッションのダブルブローに襲われた。

ニスモに600psのチューニングを施したR32を修理してもらうわけにはいかない。そこで片っ端からGT-Rを得意とするチューニングショップに連絡した。しかし大学生でお金がない状況を伝えると決まって「まずはお金の都合をつけてからだね」と、どこのショップも話すら聞いてくれない。

途方に暮れて、ダメモトで連絡したショップが初めて「とにかく電話では判断しかねるから、店に来てから相談しよう」と言ってくれた。藁にもすがる気持ちで行った先が「オートギャラリー横浜」。電話の主は小泉公二代表だ。

中古部品を使うなど、なるべく費用がかからない修理を提案してくれたが、それでもそれなりの金額になる。大学生だった中根代表に負担させていいものか考えあぐねたのだろう。小泉代表は「お父さんも呼んで決めよう」と言ってくれた。すぐに父親がR34で駆け付け話し合いに参加。小泉代表のアドバイスに共感して、修理代を貸してくれることになった。

「小泉代表は週末近くになると『デジカメ持って作業を見に来なよ』と誘ってくれたんです。電車とバスを乗り継いで通いました。仕事は丁寧ですし、後になって差が出るひと手間を惜しみなく投入し、その必要性や効果を素人にもわかりやすく説明してくれます。押し付けがましさを感じさせずに、自然にやってのける人柄は感動的ですらあります」

ほどなくして復活したR32の主な仕様は、2.7Lに排気量を上げたAGY(オートギャラリー横浜)のN1パフォーマンスエンジンがベース。ニスモのル・マンタービンに600ccインジェクター、さらにZ32エアフロをセット。カムはIN/EXともにHKSの256度に交換している。クラッチはATSのカーボンツイン。そしてAGYの690ミッションに強化トランスファーを組み合わせている。

エンジン周辺パーツは再利用して、エンジン本体と駆動伝達系をリフレッシュ。絶対的なパワーは変わらないものの、信頼性が向上して、確実に扱いやすく生まれ変わった。

中根代表はますますGT-Rの魅力にのめり込んでいくが、就職の時期なのでR32を乗り回してばかりもいられない。第一希望のニスモには入れず、クルマと関係のない企業に入社するも、研修期間を過ぎた3カ月後には退職。GT-R専門店への再就職を果たす。

「営業で入ったのですが、お客さまの質問にすべて答えたかったので、メカを猛勉強しました。面倒を見てくれていた先輩メカニックに、廃車となった部品取り用のR32をバラしてみろと言われ、営業時間が終わった夜から朝方にかけて実践しました。自宅から遠かったので実家の軽トラを借りてきて、そこに泊まり込みです。エンジンも分解して各部品名を詳細にノートに書いて。学生時代よりも勉強したほどです」

バラして元に戻すまでに約1カ月半。短期間だが驚くほど実践的な知識が得られた。いつしか職種はメカニックとなり仕事に励んでいたが、会社の方針と自分の考えとの隔たりを感じて独立を決断。父親の鈑金工場の半分を使わせてもらい、ナカネレーシングデザインは始動する。今から12年前、中根代表が27歳のときだ。

もちろん当時から現在にかけてオートギャラリー横浜との良好な関係は続いていて、エンジンチューニングの肝となるコンピュータのセッティングなどは依頼している。

「出会ってからずっと小泉代表に頼りっぱなしです。それでも独立するときはGT-Rの専門店をやるとは言えませんでした。ライバルになると言ったらおこがましいですが、複雑な心境でした。ほどなくして隠し通せないと察して、正直に伝えたら『気にすることない。わからないことは何でも聞いてよ』と言ってくれました。感謝しきれない恩人です」

小泉代表から受けた恩義を、今度はユーザーに返すべく奮闘している。とくに当時の自分のような若い層には手厚く対応して、少しでも不安を取り除く配慮を心がけている。

「後悔しないように、ちゃんとしたGT-Rに乗ってほしいです。そのためにクルマ選びからアドバイスさせてもらっています。何よりも素性のいい車両に手をかけるべきです」

復活を遂げたR32が中根代表をここまで導いてくれている。

(この記事は2022年6月1日発売のGT-R Magazine 165号に掲載した記事を元に再編集しています)

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