天に召されてしまいそうなドライビングプレジャー
今回の取材場所となった箱根・芦ノ湖スカイラインのパーキングに、このフィアット アバルト1000ビアルベロGTが弾けるような轟音とともに滑り込んできたとき、われわれ取材チーム一同は美しさに見とれて、しばし言葉を失ってしまった。
レースで一度もクラッシュを経験せず、また長らく室内で大切に保管されていたことから、ボディラインは新車当時のオリジナルが完全に保持されているという。つまりは、日本におけるアバルト60年の歴史を包み込んだ、タイムマシンのような個体なのだが、そんな来歴が持ち前の美しさを増幅させているかにも感じられる。
そして、いよいよ乗り込む時が訪れた。
あまりに低いルーフゆえに、慣れないうちは乗り込むにもアクロバティックな所作を要求されるものの、いざザガート・スタイルのバケットシートに腰を降ろしてしまえば、キャビンは狭さを感じさせることなどない。ドライビングポジションは、まるで地べたに直接座っているようなものながら、ここに落ち着いて簡素な美しさが横溢するコックピットや、低いウインドスクリーンの先に深紅のふたつの膨らみとノーズを通して前方を見据えると、なにやら神聖な心持ちになってくる。
ちなみに以前、同じMさんのご厚意でテストドライブの機会を得たフィアット アバルト「1000TCR」こと1000ベルリーナ コルサGr.2は、ツーリングカーレース用マシンながら、まるでフォーミュラカーのごとくシビアなハンドリングを披露した。
しかしこちらのビアルベロGTは、スプリント戦の多いツーリングカーレースとは違い、スポーツカー耐久レースGTカテゴリーでの活躍が見込まれたマシン。長時間の耐久レースを走ることを目的としていた。しかも1960年代半ばに、レースカーと市販スポーツカーの垣根が一気に高まってしまう直前のモデルであることも理由なのだろう。その乗り味は、意外にもTCRよりはかなりフレンドリーだった。
低速トルクは細いものの、アイドリングはちゃんとしてくれるし、シフトパターンとストロークもスタンダードのフィアット600に端を発する、より常識的なものである。また、クラッチは少々不安感を覚えてしまうほどに軽いのだが、つながりはナチュラルで扱いにくさはみじんもない。
それでも、芦ノ湖スカイラインにてアクセルを軽く踏み込んでみれば、アルミボディゆえに車両重量が圧倒的に軽く、重心も大幅に低いことも相まって、生粋のレーシングGTであることを全身で主張してくる。
例えばコーナーでの身のこなしは、ヒラリヒラリという表現がピッタリとくる軽快なもの。リアに重いDOHCエンジンを積んだRRながら、高速コーナーでのスタビリティも充分に高い。そしてTCRと同じ982ccながら、カムシャフトの数が2倍となるビアルベロ・ユニットは、生粋のレーシングエンジンであった。
劇画チックな擬音で表現するなら、1000TCRのそれと同じく「パアアァァーッン!」と弾けるサウンドなのだが、ビアルベロは少しだけ軽快。また「カミソリの刃のような」レスポンスも同等ながら、年式の古い分トルクの出方は若干おとなしく感じられる。でもTCRよりふた回り以上軽い車体は、明らかにレーシングカー的な加速感にも直結している。
これほど操縦が楽しいクルマは、他にはなかなかないだろう。しかし、このマシンを走らせる感動を何より実感させてくれたのは、クラスは違えどもあのフェラーリ「250GTO」と同じFIA-GTカテゴリーにて、一緒に走ったマシンたちと同型であるという事実。なにより、日本国内で数奇なヒストリーを辿ったことが最大の要因だったと思う。芦ノ湖スカイラインのカーブをひとつひとつ駆け抜けるうちに、自分の重たい体に羽が生えたかのような、幸福な浮遊感に全身が包まれてゆくのだ。
こうして感動的な試乗を終え、乗り込むときと同じくらいに降りにくいコックピットから転がり落ちるように脱出した次の瞬間、筆者は不思議な虚脱感を覚えながらも、この天にも昇るような素晴らしい機会を与えてくださったオーナーMさんに、全身で最敬礼してしまったのである。
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