博物館のクルマを日本のいちジャーナリストに預けてしまう懐の深さを痛感
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第13回目はチェントロ・ストリコ・フィアットで、出会ったフィアット「8V」を振り返ってもらいました。
貴重な8Vに試乗することができた
モータージャーナリストになって初の大仕事と言えるのが、当時のカースタイリング出版から刊行した世界の自動車博物館シリーズである。僅か3冊を出版して打ち止めになってしまったのは残念だったが、自分自身にとっても今となっては貴重な資料となっている。実は出版に至らなかった博物館もたくさんある。その一つがチェントロ・ストリコ・フィアットというフィアットの博物館だ。
ここを訪れたのは1979年だったように記憶する。取材のため事前にアポを取っていたから、撮影やインタビューなど実にスムーズであった。はじめのうちはわざわざホテルまでの送迎付き。そのクルマが何と当時の130クーペだったから、大喜びであった。2日目以降は131ディーゼルを貸してもらったから、休みの時などは遠出もした。
取材の最後に当時の館長から思わぬ提案があった。
「どれでも好きなクルマに乗せてあげるから言いなさい」と。
そんな素敵なオファーを受けないはずもなく、返す言葉で「それならメフィストフェレスに乗せてください」と頼んでみた。すると、「いや、あれはダメだ。あれは仮ナンバーが取れないから、仮ナンバーの取れるクルマにしてくれ」とのこと。
そこでお願いしたのがフィアット8Vであった。すると館長は「わかった。他には?」と。
今度はこちらが「?」
えっ? 他にも乗っていいの?? という感じであった。そこで今度は「じゃあ、アバルト124スパイダーでお願いします」と頼んだ。というわけでフィアットの博物館で思いがけず、2台の貴重なクルマに乗ることになったわけである。
フィアット8Vは戦後のフィアットにとって、かなり挑戦的なプロジェクトだったように感じる。当初はアメリカ人に受けるクルマを作ろうとしたようだが、それはセダンであった。そしてその開発の任を受けたのがダンテ・ジアコーザ。戦前にフィアットに入社し、トポリーノに始まり、当時のフィアットの中核をなすクルマを次々と作り上げた名エンジニアである。
しかも彼はメカニズムの設計にとどまらず、ボディデザインまでしてしまうところが凄いところで、フィアット1400などはその代表格。そしてその1400こそ、フィアット初のモノコック構造を持ったフラッシュサーフェスのモダンなクルマであり、それがアメリカ人に受けるクルマとして本来V8エンジンを搭載してアメリカに輸出されるはずのクルマであった。
しかし、出来上がったのは1.4Lの4気筒エンジンを搭載するミッドサイズセダンであった。とはいえ、V8エンジン搭載のプロジェクトが死に絶えたわけではなく、ダンテ・ジアコーザが設計したタイプ104と呼ばれたV8エンジンとタイプ106と呼ばれたシャシーは、フェラーリやマセラティに挑戦すべく、異なるプロジェクトとしてスタート。こうして完成したのが8Vだったのである。