最高速度は190km/h超
トリノから2カ月後の1956年6月17日、750レコード・カーはモンツァのオーバルコースで、翌18日にかけて24時間で3743.642kmの距離に到達、平均速度155.985km/hというクラスHの世界速度記録をもたらした。その先、アバルトが打ち立てた133もの世界記録の、最初のひとつだった。最高速度は190km/hを超えていたとか。
ところが霧や小雨に苛まれたコンディションゆえ、カルロ・アバルトはこの記録に納得していなかったらしい。翌週早々と2度目の挑戦を行った。2回目は3日間、しかも最初の6時間だけとはいえアバルトのテストドライバーではなく、ポール・フレールやベルナール・カイエといった欧州6カ国の有名ジャーナリストにステアリングを任せた。750レコードカーは500kmと500マイル次いで1000km、48時間と72時間の世界速度記録を打ち立てた。恐るべきはその高効率で、100km走行あたり6L=16.6km/Lを記録したという。
この記録と成功が、後々の「レコルト・モンツァ」エキゾースト・キット、アバルト750ザガート・レコルト・モンツァやビアルベーロに繋がっていった。その事実に鑑みれば750レコードカーはカルロ・アバルトのキャリアの中で、チシタリアのエンジニアからフィアット系チューナーへ軸足を移した時代の、過渡期的な出世作だった。実車が拝めてホントによかった、と今でも思う1台だが、カルロ・アバルトと彼のレコードカーの凄味はここで終わらない。
翌1957年にフィアットはヌォーヴァ500をローンチするが、空冷2気筒のRRコンパクトは革新的過ぎて、当初の売れ行きは芳しくなかった。だがポテンシャルを見抜いていたカルロ・アバルトは、まずフィアット500エラボラツィオーネ・アバルトという高性能バージョンを制作。モンツァのオーバルで再び高速走行マラソンを行い、7日間で6つのクラスIにおける世界記録を打ち立てた。もっとも際立った記録は、7日間で平均速度108.252km/h、距離は18886.44kmだった。
諦めなかったカルロ・アバルト
当時のフィアット社長、ヴィットーリオ・ヴァレッタはこの偉業を高く評価し、アバルト社と新たな契約を結んだ。それは新記録の更新ごとに報酬を支払うというものだった。かくしてカルロ・アバルトはフィアット500の空冷2気筒エンジンと、鋼管チューブラーフレームを用い、ボディワークはいまだピニンファリーナではないピニン・ファリーナに任せ、わずか368㎏のモノポスト、フィアット・アバルト500レコードカー(注・イエローの方)を仕立てた。
1958年9月22日の初試走こそ、メカニカル・トラブルと夜間に野兎との衝突事故で中断されたが、27日から2度目のトライで最終的に500レコードカーは17もの世界記録を打ち立てた。翌年夏にかけて500レコードカーは記録に挑み続け、トータルで28もの新記録を更新。10日間で2万8000kmあまり、平均速度116.38km/hという、クラスIの金字塔を打ち立てた。
以降もピニンファリーナとアバルトは空力を追求したレコードカーの開発を継続し、ひとつ面白い話がある。1960年9月、アバルトのチームは最新の750レコードカーで6時間、12時間……と、平均速度の記録を更新し続けていた。72時間の記録があと少しで達成という間際に、経験豊かなテストドライバーのウンベルト・マグリオーリがスピンを喫し、エンジンがかからず再スタートが切れなくなった。だがカルロ・アバルトは諦めなかった。規則ではゴール時にエンジンがかかっていることが必須でないことを見抜き、ドライバーであるマグリオーリひとりに車両を押させて、ゴールラインをくぐらせた。
それまでのフォードの記録を破る、72時間で1万2824.545kmを平均速度186.68km/hは、かくして公式に認められたのだ。フィアット&アバルトはこうした逸話だらけのコンストラクターだからこそ、記憶に残る1台を絞ることが、格別に難しいのだ。