スポーツ=ホンダというイメージの元となったモデルだった
1946年、本田宗一郎は旧帝国陸軍が所有していた無線機の発電用エンジンを自転車の補助動力として使うことを発案した。これがホンダ創業の元となる出来事だった。1947年には自社製エンジンの開発に成功。それが本田の名を冠したはじめての製品であるA型エンジンだ。
自由競争こそが自動車産業を伸ばしていく
その後ホンダは農機用のエンジン開発や二輪車の開発を開始し、1958年には今に続く大ヒット作、スーパーカブを発売。1959年にはアメリカへ進出し、1961年にはマン島TTレースで初優勝し、同時に125ccクラスと250ccクラスの1〜5位を独占するという快挙を成し遂げた。本田宗一郎というカリスマが全社を引っ張っていたからこそ成し遂げた栄冠、といっていいだろう。
そんなホンダが次に目指したのは、四輪への進出だった。まずおこなったのは、サーキットの建設だった。二輪、四輪ともにレースでの勝利やモータースポーツの普及、海外メーカーに性能で勝るモノづくりをおこなうために本格的なサーキットが日本にも必要だと考えたのだ。それが鈴鹿サーキットの成り立ちである。
しかし当時の日本は、自動車産業に限った話ではないのだが、いろいろな分野で小メーカーが乱立している状態だった。戦後軍需産業から分散した有能な人材が、あちらこちらで活躍していた、といえば聞こえがいいが、ようするにそれぞれがそれぞれに商売をしていたような状態だったのだ。
そのような状態が続いていると、資本力に勝る海外の大メーカーに対抗できず、国内産業が衰退する、と考えた通商産業省(現・経済産業省)は、合併や統合によって資本力を集中させることを考えていた。
しかし本田宗一郎は、自由競争こそが自動車産業を伸ばしていくと考え、通産省に直談判をおこなった。そのことからホンダは、乗用車や商用車の市販実績を積み上げていくことが必要となる。こういった事情から開発されることとなったのが「スポーツ360」と「T360」である。