史上4台目に作られた右ハンドルのデイトナの落札価格は?
シャシーNo.#12853は、1969年9月3日にフェラーリによって正式に完成されたと記されている。これは4番目に製造された右ハンドル車であり、最初期の生産分であるため、希少で望ましいプレキシガラス製ノーズが装着されていた。また、イギリスへ最初に入国したデイトナの1台であったと考えられている。
10月30日にピアソン子爵は、フェラーリの最も古い正規代理店のひとつである「マラネッロ・コンセッショネアーズ」から、この時代のフェラーリを慢性的に悩ませていた労働争議によって、シャシーNo.#12853の引き渡しが遅れているという知らせを受け取った。そしてマラネッロからの車両引き取りは、彼の友人でレーシングドライバーのアラン・ド・キャドネが担当することに。
ストライキが続く中、フェラーリ本社は12月1日、シャシーNo.#12853には赤いカーペットが敷かれてしまい、注文どおりの黒いカーペットは取り付けられない旨をマラネッロ・コンセッショネアーズに伝えている。さらにこの手紙には、ピアソンの要望どおりネロ(黒)のシートを装着していることが記されている。
年が明けて1970年の2月2日、ようやくフェラーリはマラネッロ・コンセッショネアーズに工場出荷時の請求書を発行。その25日後、ピアソンへの請求書が発行され、子爵から正式に車両代金が支払われた。
そこでド・キャドネは、デイトナを受け取るために即日マラネッロに派遣され、3月4日にロンドンに戻ってきた。そして3月30日、彼はピアソン子爵への納車に備えて洗車+ワックスがけを行うとともに、マラネッロ・コンセッショネアーズでの初回点検整備を手配している。
その後のシャシーNo.#12853は、1980年にパトリック・リンゼイの手に渡り、1986年1月に彼が亡くなると、ロンドンのフランシス・トンプソンが手に入れた。さらに著名なコレクターにしてレーサー、日本のコレクターとも交流のあったニール・コーナーの手にわたり、1987年後半には「MSDモーター・カンパニー」社のものとなった。
そして1990年2月8日、このデイトナはオークションで落札されたものの、新しいオーナーに引き渡されるまでに事故に巻き込まれ、オフサイドのフロントコーナーが損傷。イタリアでフルレストアされ、新オーナーに引き渡されたのは3年後になってしまう。またこの時のレストア以降、ボディカラーは「ロッソ・ボルドー」から「ロッソ・コルサ」にリペイントされた。
1998年7月、この365GTB/4はR・エルスモアによってオークションで落札された。彼は2001年3月までこのフェラーリを所有し、その後個人ディーラーに売却された。
2003年後半には、シャシーNo.#12853はデンマーク在住の愛好家の手に渡り、2004年1月にデンマークに輸出された。かの地で10年間の所有のあと、フェラーリは英国に戻り、現在のオーナーが入手した。
現オーナーの管理のもと、このデイトナは「フェラーリ・クラシケ」の認定プログラムを受け、2015年12月9日に、おなじみのレッドブックが発行された。クラシケ認定について、現オーナーから提出された請求書は、1万2000ポンドを超える費用を投じたことを証明している。
このデイトナは、現時点においてシャシー/エンジン/トランスアクスルともにマッチングナンバーを維持している。車体はロッソ・コルサで仕上げられ、赤いカーペットの上にファクトリー仕様の黒革レザーシートが置かれている。
4番目に製造された右ハンドルの365GTB/4デイトナであることに加え、多くの著名なコレクターに所有された魅力的な歴史を持つ。また、フェラーリ・クラシケ認定を受けたこのデイトナは、英国のフェラーリ・コレクターやエンスージアストにエキサイティングな機会を提供する。
RMサザビーズ欧州本社では、そんな触れ込みとともに48万ポンド〜54万ポンドという、現在の市場価格を反映したエスティメート(推定落札価格)を設定。そして11月4日の競売ではエスティメート下限にちょっとだけ届かない47万7500ポンド。日本円に換算すれば約8900万円で、落札の小槌が鳴らされることになった。
円安の為替レートゆえに、日本円換算ではかなりの高額であるかにも見えるが、英ポンドの落札価格自体は、以前に比べると少し落ち着いたかにも映る。それでも、P400SVを筆頭とするミウラの相場との差は、まだまだ狭くはならないようだ。