2023年からボローニャに舞台を移して行われた
2023年10月26~29日、筆者はイタリア・ボローニャで開催されたクラシックカーのトレードショー「アウト・エ・モト・デポカ(Auto e Moto d’Epoca)2023」を訪ねた。そこはめくるめくクラシックカーの競演の場であった。その模様をレポートしよう。
イタリアのクラシックカーショーは世界遺産級のお宝が勢ぞろい
イベントタイトルの「アウト・エ・モト・デポカ」とは、「良き時代のクルマとバイク」という意味。もともとは「モストロスカンビオ」と呼ばれる、イタリアの全国各地で行われているパーツやミニカーなどの業者やクラブによる、大規模フリーマーケットから発展したものである。1980年代中盤にヴェネト州パドヴァにて初めて開かれたのち、長らくパドヴァを開催地としていたが、イベントの飛躍的成長にしたがって会場が手狭になったことから、2023年からボローニャに舞台を移して行われることになったという。
ボローニャ初開催となった新生アウト・エ・モト・デポカでは、日本の東京ビッグサイトの2倍以上に相当するという広大な会場をフルに活用。約3000社にも及ぶ自動車メーカーに愛好家クラブ、あるいはクラシックカー専門ディーラーたちによって、じつに5000台以上もの二輪・四輪車たちが出品されるほか、パーツに書籍・カタログ類、グッズやアパレル、ミニチュアカーや高級時計、果てはヨットなどを販売するブースもところ狭しと並ぶ。
そして当然ながら、新旧の素晴らしいクルマたちに出逢うことができたのだが、今回はその中から自動車史の文化財、人類の宝ともいえるクルマをピックアップしてご紹介したい。
アウト アヴィオ コストゥルツィオーネ815
エミリア・ロマーニャ州モデナやボローニャをイタリア自動車産業の聖地とみなし、この地域のメーカーやミュージアムによって自主イベントなども展開している「MOTOR VALLEY」は、今回のアウト・エ・モト・デポカでも大型展示ホールの約半分を占有。そこで遭遇したのが、この「アウト アヴィオ コストゥルツィオーネ815」という、舌を噛みそうな名前のスポーツカーである。
今では世界各国の一流イベントにも登場しているので、ご存知の方も多いかもしれないが、これはエンツォ・フェラーリが1939年をもってアルファ ロメオとたもとを分けたのち、はじめて自らの会社で作りあげたクルマ。アルファ ロメオとの協定により、一定期間は「フェラーリ」をブランド名とすることができなかったため、「Auto(自動車)Avio(航空機)Costruzioni(製作)」社を設立。その歴史上唯一のモデルが、1940年のミッレ・ミリアに出場するアルベルト・アスカリらのリクエストに応えて開発した815だった。
フィアット「508Cヌォーヴァ・バリッラ」のシャシーを改良し、同じく508C用直列4気筒OHVエンジンを前後につないで直列8気筒としたうえで1500ccに縮小したエンジンを搭載。トゥーリング・スーペルレッジェーラ製の2座席スパイダーボディを架装した。
2台が製作されたうちの1台が、モデナ近郊のリギーニ・コレクションに長らく所蔵されており、今回のイベント出展もリギーニ・コレクション名義となっていた。
ランチアD23 & D24
ランチアのモータースポーツといえば、世界ラリー選手権(WRC)をはじめとするラリー競技における縦横無尽の活躍が思い出されるが、1950年代前半にはFIA世界スポーツカー選手権で素晴らしい戦果を挙げ、最終的にはF1GPにも挑戦していた。
今回のアウト・エ・モト・デポカにて、ボローニャ・フィエラ(見本市会場)正面エントランスで来場を待ち構えていた「MAUTO(イタリア国立自動車博物館)」の特別展示コーナーに置かれていた「D23」。そして、日本のJAFに相当する「ACI(Automobile Club d’Italia)」クラシック部門の特設ブースに置かれていた「D24」はその時代に製作され、主にロードレースで大活躍したレーシングスポーツである。
第二次大戦前にはアルファ ロメオで一時代を築き、この時代はランチアに移籍していた巨匠、ヴィットリオ・ヤーノ技師が手がけたD23は、専用の鋼管スペースフレームにV型6気筒4カムシャフトの専用エンジンを搭載。ピニンファリーナのデザインによるスパイダーボディを架装した、純粋なレーシングスポーツである。
ところが、1953年5月に実戦投入されたD23は複数のレースで上位入賞するも、同時代のフェラーリなどに阻まれて優勝は果たせなかった。
そこでランチアは、D23の空力面やエンジンをブラッシュアップした改良型であるD24を、D23のデビューから遅れることわずか3カ月の1953年8月に実戦投入。同年11月の「カレラ・パナメリカーナ・メヒコ」でファン・マヌエル・ファンジオが初優勝を果たす。
また翌1954年の「ミッレ・ミリア」でアルベルト・アスカリが、そして1954年の「タルガ・フローリオ」と「ジーロ・ディ・シチリア」ではピエロ・タルッフィが総合優勝を果たすという目覚ましい戦果を残し、ランチアの名を世界に轟かせる名作となったのだ。
ランボルギーニ ミウラP400SV
ランボルギーニ「ミウラ」は、この種のクラシックカーイベントでは常連中の常連。今や特段珍しいものではなく、今回のアウト・エ・モト・デポカでも両手に余るほどのミウラを見かけた。しかし、こちらも「MOTOR VALLEY」コーナーに展示されていたオレンジ色のミウラP400SVをよくよく見ると、ヘッドライトの上下にスタンダードのP400SVには無いはずの「まつ毛」がある。
これでお気づきの方も、きっといらっしゃることだろう。このP400SVは、開祖フェルッチオ・ランボルギーニ自身が生涯愛し続け、現在もランボルギーニ家がボローニャ近郊の農村で開いているプライベートミュージアム「ムゼオ・フェルッチオ・ランボルギーニ」から出品された個体なのだ。
ミウラの歴史的意義は誰もが認めるものながら、普通の市販型ミウラ1台1台は「人類の宝」とまでは言いがたい。でも、フェルッチオがあえてまつ毛つきでオーダーし、1993年に逝去するまで愛し続けたこの個体ならば、間違いなくイタリア自動車史の文化遺産に相当する……、と断言しても間違いあるまい。