ワークスドライバーで快進撃開始も、じわじわ近づく刺客の足音
そこからGT-Rの快進撃が始まりました。日本グランプリの翌月行われた富士300kmゴールデン第2戦のツーリングカーレースでは黒沢元治選手が、NETスピードカップのグリーンカップ(ツーリングカーレース)では都平健二選手が、と日産ワークスの精鋭が勝利を重ねていくと、次第にプライベーターもGT-Rの「操縦スキル」を高めて優勝戦線に名を連ねるようになりました。
そしてこの年の全日本ドライバー選手権のT-IIチャンピオンには都平選手が輝いています。翌1970年にはスカイラインGT-Rをドライブした高橋国光選手がパーフェクトで同選手権のT‐IIチャンピオンに、そして1971年にはスカイライン・ハードトップGT-Rをドライブした長谷見昌弘選手が、パーフェクトで同選手権のT‐IIチャンピオンに輝いています。
しかし、このころから王者GT-Rに対する刺客が顔をのぞかせるようになってきました。それは1960年代の終わりにヨーロッパの耐久レースで高速耐久性を磨いてきたロータリー軍団です。すでに1969年の11月には片山義美選手のドライブで「ファミリア・ロータリークーペ」がロータリーの国内初レースを戦い、初優勝を遂げていました。そのマツダが1970年で海外遠征を終了し、1971年から国内レースに参戦するようになったことで、GT-R vs ロータリー軍団の本格的な戦いが幕を開けることになったのです。
このバトルは富士スピードウェイを舞台に2Lの2座オープン・スポーツカーがバトルを繰り広げて人気が高まってきた富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズのサポートレース、富士スーパー・ツーリング(ST)レース。富士の右回り6kmのフルコースは長いホームストレートの先に30度バンクを駆け下りていく特徴的なもの。そこを攻略するには特異なセッティング&ドライビングが必要で、この点ではGT-R勢に分がありました。
1971年シーズン後半にはファミリア・ロータリークーペの後継であるサバンナに一クラス上、「カペラ・ロータリー」のエンジンを搭載したサバンナRX3を投入してきたロータリー軍団は、先ずはヨーロッパで鍛えた耐久レースでGT-Rから勝利を奪っています。また30度バンクを使わない左回り4.3kmのショートコースでも威力を発揮するようになりました。
こうなるとGT-R勢に残された「最後の砦」は右回り6kmのフルコースです。ここを舞台に戦われたのが、先に触れた富士のSTレースです。特に雨が降るコンディションでは日産ワークスの猛者がドライブするGT-Rが強烈な速さと強さを見せつけます。
なかでも、今も語り継がれる名シーンがありました。それは1972年の3月に富士スピードウェイで開催された1972年富士GCシリーズ開幕戦・富士300kmスピードレースと6月の第2戦・富士グラン300マイル、それぞれのサポートレースとして行われたSTレース。高橋国光選手は2レースともにヘッドライトカバーやフロントスポイラーをブルーにペイントし、ボンネットからテールエンドにかけて太いブルーのストライプが走る15号車のGT-Rで出走していました。
ともに大雨に見舞われたコンディションとなりコースオフやクラッシュが相次ぐレース展開となりましたが、2レースともに高橋国光選手がブッチギリで優勝しています。GT-Rの優勝記録(連勝記録)には諸説あり、NISMOの公式カウントでは3月のレースが50勝としていますが、50勝はもっと早いとするものもあります。
しかしいずれにしてもこの2レースで高橋国光選手が圧倒的なパフォーマンスを見せたことは間違いありません。今回登場した15号車はこの2レースに出走したスカイラインGT-Rを復元したモデル。レプリカとは言え高橋国光選手自身もその出来栄えを認めた1台で、数々のモータースポーツイベントでステアリングを握ったことでも広く知られています。