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国さん仕様の「ハコスカGT-R」が走った! 「箱車の祭典2023」ではGT-R vs ロータリー軍団も実現しました

会場では、サバンナRX-3と高橋国光さん仕様のハコスカが絡むシーンが大盛況だった

ポルシェとの戦いから生まれた史上最強のツーリングカー

2023年10月29日に富士スピードウェイで開催された「箱車の祭典2023」。そこに現れたのは、2022年3月16日に逝去した高橋国光さんが乗った仕様を再現した日産「スカイライン2000GT-R」(KPGC10)がエントリーしていました。同車についてあらためて振り返ってみましょう。

スカイラインGT“伝説”の幕開け

国内初の本格的自動車レースとなった1963年の日本グランプリで、プリンス自動車工業は自工会の申し合わせ通り本格的なサポートを行わずにレースでは惨敗でした。その反省から翌1964年の日本グランプリでは2クラスのツーリングカー、2L直6を搭載した「グロリア」と1.5Lのスカイラインに加えて、スカイラインのノーズを約20cm延長してグロリア用の2L直6エンジンを搭載したスカイラインGTを製作。GTクラスにエントリーして、3クラス制覇を目指すことになりました。

目論見通りにスカイラインとグロリアは、それぞれ1301cc~1600ccのT-Vレースと1601cc~2000ccのT-VIレースで圧勝したのですが、スカイラインGTがエントリーした1001cc~2000ccのGT-IIレースではロードスポーツというよりも準レーシングマシンのポルシェ「904」がライバルとして登場し、惨敗を喫してしまいました。もっとも、スタートで好ダッシュを見せてトップに立ったポルシェが、7周目のヘアピンでバックマーカーに詰まってスピードダウンし、ポルシェをかわしたスカイラインGTがトップでホームストレートに戻ってきたことから、スカイラインGTの健闘が神話的に称えられ、ここからスカイラインGT“伝説”が語り継がれることになるのです。

そんなスカイラインGTの後継モデルとして登場したのが1969年の2月に発売が開始され、同年5月にレースデビューを果たしたスカイラインGT-Rでした。プリンス自工は1966年の日本グランプリ用にレーシングスポーツの「R380」を開発していましたが同グランプリで優勝を飾っていたこともあり、1966年の8月に日産に吸収合併された後も旧プリンスの主導で開発が続けられていました。そのR380に搭載された2L直6ツインカム・24バルブのGR8エンジンと基本設計が同じS20エンジンを搭載したスカイラインGTレーシング仕様が同年の東京モーターショーに参考出品され、スカイラインGT-Rとして発売されたのです。

当時のツーリングカーレースは排気量1300cc以下のクラスはトヨタの「カローラ」/「パブリカ」連合軍が圧倒的に優勢で、一方1301cc以上のクラスでは、やはりトヨタの「1600GT」が旧スカイラインGTを駆逐し、新たな王者に就いていました。新たにレースデビューするGT-Rの最大のミッションは“打倒1600GT”でした。

同じツインカムですが、トヨタ1600GTは1.6Lの8バルブで、絶対的なパフォーマンスでは明らかにGT-Rに分がありましたが、トヨタ1600GTは十分に開発され、レーシングカーとして完成されていました。一方GT-Rはまだまだ開発途上。そして何よりドライバー制限が勝敗を大きく左右することになりました。レギュレーションで“ワークスドライバー”の参加は認められていなくて日産では有力プライベーターにドライブを任せることにしたのですが、ライバルのトヨタは純ワークスではなかったものの、事実上ワークスともいうべき高橋晴邦選手を起用しています。

クルマのパフォーマンスでは明らかにGT-Rが上回っていたものの、晴邦選手のレーシングスキルに一敗地に塗れてしまいました。ただし正式結果は晴邦選手にペナルティが課せられ降着。スッキリしないまま、GT-Rはデビュー戦を優勝で飾ることになりました。

ワークスドライバーで快進撃開始も、じわじわ近づく刺客の足音

そこからGT-Rの快進撃が始まりました。日本グランプリの翌月行われた富士300kmゴールデン第2戦のツーリングカーレースでは黒沢元治選手が、NETスピードカップのグリーンカップ(ツーリングカーレース)では都平健二選手が、と日産ワークスの精鋭が勝利を重ねていくと、次第にプライベーターもGT-Rの「操縦スキル」を高めて優勝戦線に名を連ねるようになりました。

そしてこの年の全日本ドライバー選手権のT-IIチャンピオンには都平選手が輝いています。翌1970年にはスカイラインGT-Rをドライブした高橋国光選手がパーフェクトで同選手権のT‐IIチャンピオンに、そして1971年にはスカイライン・ハードトップGT-Rをドライブした長谷見昌弘選手が、パーフェクトで同選手権のT‐IIチャンピオンに輝いています。

しかし、このころから王者GT-Rに対する刺客が顔をのぞかせるようになってきました。それは1960年代の終わりにヨーロッパの耐久レースで高速耐久性を磨いてきたロータリー軍団です。すでに1969年の11月には片山義美選手のドライブで「ファミリア・ロータリークーペ」がロータリーの国内初レースを戦い、初優勝を遂げていました。そのマツダが1970年で海外遠征を終了し、1971年から国内レースに参戦するようになったことで、GT-R vs ロータリー軍団の本格的な戦いが幕を開けることになったのです。

このバトルは富士スピードウェイを舞台に2Lの2座オープン・スポーツカーがバトルを繰り広げて人気が高まってきた富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズのサポートレース、富士スーパー・ツーリング(ST)レース。富士の右回り6kmのフルコースは長いホームストレートの先に30度バンクを駆け下りていく特徴的なもの。そこを攻略するには特異なセッティング&ドライビングが必要で、この点ではGT-R勢に分がありました。

1971年シーズン後半にはファミリア・ロータリークーペの後継であるサバンナに一クラス上、「カペラ・ロータリー」のエンジンを搭載したサバンナRX3を投入してきたロータリー軍団は、先ずはヨーロッパで鍛えた耐久レースでGT-Rから勝利を奪っています。また30度バンクを使わない左回り4.3kmのショートコースでも威力を発揮するようになりました。

こうなるとGT-R勢に残された「最後の砦」は右回り6kmのフルコースです。ここを舞台に戦われたのが、先に触れた富士のSTレースです。特に雨が降るコンディションでは日産ワークスの猛者がドライブするGT-Rが強烈な速さと強さを見せつけます。

なかでも、今も語り継がれる名シーンがありました。それは1972年の3月に富士スピードウェイで開催された1972年富士GCシリーズ開幕戦・富士300kmスピードレースと6月の第2戦・富士グラン300マイル、それぞれのサポートレースとして行われたSTレース。高橋国光選手は2レースともにヘッドライトカバーやフロントスポイラーをブルーにペイントし、ボンネットからテールエンドにかけて太いブルーのストライプが走る15号車のGT-Rで出走していました。

ともに大雨に見舞われたコンディションとなりコースオフやクラッシュが相次ぐレース展開となりましたが、2レースともに高橋国光選手がブッチギリで優勝しています。GT-Rの優勝記録(連勝記録)には諸説あり、NISMOの公式カウントでは3月のレースが50勝としていますが、50勝はもっと早いとするものもあります。

しかしいずれにしてもこの2レースで高橋国光選手が圧倒的なパフォーマンスを見せたことは間違いありません。今回登場した15号車はこの2レースに出走したスカイラインGT-Rを復元したモデル。レプリカとは言え高橋国光選手自身もその出来栄えを認めた1台で、数々のモータースポーツイベントでステアリングを握ったことでも広く知られています。

【動画】ドリキン感激! 国さん仕様のハコスカに試乗

 

 

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