ロータリー・エンジンで格上のクルマを追いあげる
初レースとなった1968年のマラソン・デ・ラ・ルートで、コスモスポーツが4位入賞を果たしたことで、ヨーロッパにおいて大きく注目されるようになったロータリー・エンジン(RE)ですが、そのレースが行われる少し前の1968年6月にマツダ(当時は前身の東洋工業)は2代目ファミリアに、コスモと同じREを搭載した「ファミリア ロータリークーペ」(型式はM10A)を発表。R100のネーミングで輸出も始まっていましたから、市場では「コスモスポーツ」(輸出名は110S)よりもR100のプロモーションが重要となるのは明らかでした。
本場ヨーロッパの耐久レースに戦いの場を移し戦った
そこでマツダでは1969年からは、コスモスポーツに代えてファミリア ロータリークーペを、海外におけるモータースポーツの主戦モデルとして戦っていく戦略を執っています。その初戦となったのは同年4月に開催されたシンガポール・グランプリのツーリングカーレース。ここで総合1位を獲得し上々の滑り出しを見せ、いよいよ本場ヨーロッパの耐久レースに戦いの場を移しました。
ヨーロッパ遠征の初戦は7月に行われたスパ-フランコルシャン24時間レース。前年にニュルブルクリンクで84時間レースを戦い、REの信頼耐久性には自信を持っていたマツダでしたが、この24時間レースはヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETCC)のシリーズ第8戦で、BMWやアルファ ロメオ、そして久々にカムバックしてきたメルセデス・ベンツなどの有力チームが目白押しでタフな戦いが予想されていました。
しかし決勝レースではポルシェ「911」が上位を独占し、4位のポルシェを追いかけまわしたイブ・デプレ/片山義美組の28号車が5位入賞を果たし、片倉正美/武智俊憲組が6位で続きました。さらに8月にニュルブルクリンクで行われたマラソン・デ・ラ・ルートは3日間を通して雨に見舞われ、チェッカーが近づいたころにようやく雨が止むというタフなレースとなりましたが、ここでもファミリア ロータリークーペの活躍が目立つレースとなったのです。
スタートからポルシェがレースをリードしましたが、後続のフォード「カプリ」の猛チャージを受けてクラッシュしてしまったのです。その後は、この2.3Lエンジンに換装したカプリが終盤までレースを支配していましたが、エンジンブローでストップ。最終的にはランチアがトップチェッカーを受けています。
レースの序盤には、トップグループの後方で3~5位につけていたファミリア ロータリークーペでしたが、片山/片倉/武智組の27号車がクラッシュで、イブ・デプレ/ヘルムート・ケレナーズ/クライブ・ベーカー組の28号車がガス欠で、ともにストップしてしまいましたが、残った1台、ピエール-イブ・ベルタンシャン/ヒューズ・ド・フィアラン/ロジャー・エネヴァー組の29号車は84時間を走りぬき、5位でチェッカーを受けています。
優勝したランチア「フルビア」やトライアンフ「TR6」などのGTやIKA「トリノ」といったプロトタイプが上位を占めるなか、総合2位のBMW「2002」に次いでツーリングカー・クラスでは堂々の2位。前年のコスモスポーツに次いで2年連続の大活躍でした。