エットレの死と第1期ブガッティの終焉
2つの世界大戦をはさんだ「ベル・エポック」と呼ばれる時代に隆盛を極めたブガッティだが、「ル・パトロン」こと開祖エットレの存在があまりに大きかったゆえに、ブガッティ社の存亡は彼自身の命運と表裏一体のものとなった。
3.3Lの直列8気筒DOHCユニットを搭載し、1935年に登場したツーリングカー「T57」およびスーパースポーツ「T57S」では、長男であるジャン・ブガッティがデザインワークを主導し、ブガッティ帝国を継承するに相応しい才覚を見せた。ところが、そのジャンがル・マン24時間レースのために開発した「T57Gタンク」をテスト中に事故で夭折したことが、ブガッティ落日のはじまりとなってしまう。
第二次世界大戦の勃発により、フランスを占領したナチス・ドイツ軍にモールスハイムの工房を接収されてパリに疎開したエットレは、戦時中も複数のアイデアを図案化していた。また、自由を何よりも愛するエットレは占領下のフランスで奮闘したレジスタンスに秘密裏に協力、パリのアトリエはレジスタンス闘士たちの中継センターとしての役割も果たしたと云われる。
しかし憎きナチの敗走も、大戦後のブガッティ復活を目指した新しいプロジェクトさえも、エットレの命の炎を再燃させるには至らなかった。1947年8月21日、エットレ・ブガッティは自ら築いた帝国とその後継者を失った失意のうちに、その波乱に満ちた66年の生涯を終えたのである。
そして戦後のフランスでは、まずは国民の足を確保すべしという方針のもと、高級車にはほとんど禁止税とも言うべき高い税金が掛けられることになる。その結果「ドラージュ」や「タルボ・ラーゴ」など、多くの名門がその命運を途絶えさせる中、モールスハイムの荘園を取り戻す裁判には勝訴したものの、会社牽引の原動力たるエットレやジャンはすでに亡かった。
戦前型T57の焼き直しとも言える「T101」でお茶を濁していたブガッティにかつての栄光が再訪するなど、もはや見果てぬ夢だったのだ。
最後の生産車T101は6台を製作しただけに終わり、その6台目のシャシーには「fini(おわり)」のプラークが付けられたと言われる。
1963年7月末日を以って、モールスハイムは親会社となることが決定したかつてのライバル、イスパノ・スイザ社に全設備を移管するため、ついに業務停止と工場閉鎖の憂き目を見ることとなった。
同年7月22日、モールスハイムで支給された最後の給料袋には「ル・パトロン」時代からの熟練工を含むすべての従業員に宛てて、ブガッティ家からの謝意を記した一通の手紙が添えられていた。
この日、自動車の芸術性を飽くことなく追い求め続けた孤高のカリスマ的コンストラクターは、自動車史の表舞台から静かに姿を消したのである。
しかし、ブガッティとその芸術を愛する愛好家たちの中で、その伝説は綿々と語り継がれることになる。ブガッティ終焉から四半世紀を迎えた1987年、イタリアにてこのブランドの復活を実現したロマーノ・アルティオーリも、そんなブガッティ伝説を幼時から信奉する一人であった。