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ブガッティはいかにして「世界最高の自動車ブランド」になったのか? 創業から半世紀で生産7800台の第1期を振り返る【ブガッティ・ヒストリー_01】

約100年前の1924年にデビューしたブガッティ「T35」(手前)と、2019年から40台限定で生産されたハイパーカー「ディーヴォ」(奥)

自動車で「総合芸術」を目指した第1期ブガッティ

オペラは、時として「総合芸術」と称される。歌劇はもとより音楽と演劇を兼ね備えるのにくわえて、近代以降のオペラでは壮麗な舞台美術や趣を凝らしたコスチュームなど、構成要素のすべてに芸術的資質を追求するのが半ば常識となっている。自動車史上最大の鬼才、エットレ・ブガッティが生涯にわたって追い求めたのは、自動車という当時最先端のテクノロジーの結晶を表現媒体とした「総合芸術」だったのではあるまいか……?

芸術家エットレの興した自動車ブランド

エットレの造った自動車の多くが、芸術作品、たとえば現代美術の彫刻作品としても鑑賞に堪えうる美しさと、「キャラコ(白木綿地)を引き裂くような」という名文句で形容される音楽的な排気音を奏でることは、幸運にしてブガッティに触れるチャンスを得たエンスージアストなら周知の事実であろう。自動車界における最高のブランドであるブガッティの、21世紀の現在にまで継承された世界観がいかにして形成されたのか……? まずはエットレ時代のブガッティを解説させていただこう。

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ブガッティの開祖、エットレ・ブガッティは1881年9月25日に生を受けた瞬間から、アーティストたることを運命づけられていた。ミラノの著名な家具デザイナー兼造形作家、カルロ・ブガッティの長男として生まれた彼は、幼い頃から父とそのサロンを訪れるさまざまな分野のアーティストたちから、文化・芸術の英才教育を受けてゆく。またそのいっぽうで機械工学、とくに当時発明されて間もない自動車という乗り物に強く惹かれていた。

そして、10代から自動車メーカーの主任設計者に請われるほどの才能を発揮した彼は、いくつかのメーカーを渡り歩いたのち、1909年に自らの名を冠したブガッティ社を設立するに至る。

イタリア国籍はそのままフランス定住を決めたエットレは、ドイツとの国境に近いアルザス・モールスハイムにアトリエとも呼ばれる工房を設け、その敷地内に自身と家族のためのシャトーと、愛馬たちのための厩舎も建設。まるで貴族の荘園のようなコミュニティを作った彼は、昔ながらの徒弟制度にしたがって「ル・パトロン(親方)」と呼ばれた。

この時期、ブガッティが生み出した名作は枚挙に暇がない。自社ブランド初の作品「T13ブレシア」はライトスポーツカーの元祖となった。また1924年に登場した「T35」を端緒とし、「T37/T37A」や「T51GP」などのファミリーが輩出した一連の「グランプリ・ブガッティ」は、当時のGPレースやスポーツカーレースで大活躍したうえに、自動車に初めて機能美という概念をもたらしたとされている。

そして、市販モデルでも1万2763cc、プロトタイプに供された第1号車に至っては1万4726ccという乗用車史上最大の排気量を持つ直列8気筒エンジンを搭載。自動車史上最高級車といわれる「T41ロワイヤル」も、もちろんブガッティの芸術的センスから生み出されたマスターピースだった。

自動車とその世界観を表現媒体とした芸術活動とは?

芸術家エットレ・ブガッティが生涯にわたって追い求めたのは、自動車という当時最先端テクノロジーの結晶を表現媒体とした「総合芸術」。彼の造った自動車の多くが芸術作品としても通用する美しさと音楽的なエキゾーストノートを誇ることは、幸運にしてブガッティに触れる機会を得たエンスージアストなら周知の事実であろう。

当時の高級車は、エンジンやシャシーなどのメカニズムのみを製造し、ボディ架装は専業のコーチビルダーに委ねるのが常道とされていたのだが、ブガッティではデザインからエットレ自らが手がけ、製造もすべて自社で行うことをデフォルトとしていた。

そして、肝心のメカニズムでも美的側面を最優先したエットレは、たとえばアルミニウム合金製エンジンブロックも直方体にこだわるために、直列4気筒ないしは8気筒だけとしたうえに、ヘッドの形がシンプルな直方体ではなくなるDOHCも極力排除。

アルファ ロメオなどのライバルにパワーでは後塵を喫しながらも、かのパブロ・ピカソは白銀に輝く直方体のエンジンを「最も美しい人工物」と評したといわれている。

また、プロポーションに影響を与える独立懸架の採用も最後まで拒むなど、テクノロジーの進化に抗ってでさえも、自動車という乗り物が潜在的に持つ古典的な機能美を徹底して表現しようとしていた。

さらに自動車以外にも、エットレ自身と彼を取り巻く人々によってなされたドラマティックなストーリー。モータースポーツやコンクール・デレガンスなどの晴れ舞台で、ヨーロッパ中の観衆の視線を独占した華やかなカリスマ性。そして、クルマ創りの場から日常生活の場に至るまでの環境に要求する徹底した美へのこだわりなど、エットレが表現しようとしたすべてが、今なお世界中の熱心な愛好家「ブガッティスタ」を魅了し続けているのだ。

英国の研究家H.G.コンウェイの著した、ブガッティのバイブルとも称される名作『Le Pur-Sang des Automobiles』によると、イスパノ・スイザ社によって併合される1963年までにモールスハイムのアトリエから生み出されたブガッティのクルマは、ツーリングモデルからワークスのGPマシンまで全て合わせても、じつに約7800台+αに過ぎないと推定されている。

しかし、ブガッティが数あまた存在する名門メーカーの中でも最高の伝説的存在として、その神秘性とカリスマ性を保ち続けているという事実は何人たりとも否定できまい。

エットレの死と第1期ブガッティの終焉

2つの世界大戦をはさんだ「ベル・エポック」と呼ばれる時代に隆盛を極めたブガッティだが、「ル・パトロン」こと開祖エットレの存在があまりに大きかったゆえに、ブガッティ社の存亡は彼自身の命運と表裏一体のものとなった。

3.3Lの直列8気筒DOHCユニットを搭載し、1935年に登場したツーリングカー「T57」およびスーパースポーツ「T57S」では、長男であるジャン・ブガッティがデザインワークを主導し、ブガッティ帝国を継承するに相応しい才覚を見せた。ところが、そのジャンがル・マン24時間レースのために開発した「T57Gタンク」をテスト中に事故で夭折したことが、ブガッティ落日のはじまりとなってしまう。

第二次世界大戦の勃発により、フランスを占領したナチス・ドイツ軍にモールスハイムの工房を接収されてパリに疎開したエットレは、戦時中も複数のアイデアを図案化していた。また、自由を何よりも愛するエットレは占領下のフランスで奮闘したレジスタンスに秘密裏に協力、パリのアトリエはレジスタンス闘士たちの中継センターとしての役割も果たしたと云われる。

しかし憎きナチの敗走も、大戦後のブガッティ復活を目指した新しいプロジェクトさえも、エットレの命の炎を再燃させるには至らなかった。1947年8月21日、エットレ・ブガッティは自ら築いた帝国とその後継者を失った失意のうちに、その波乱に満ちた66年の生涯を終えたのである。

そして戦後のフランスでは、まずは国民の足を確保すべしという方針のもと、高級車にはほとんど禁止税とも言うべき高い税金が掛けられることになる。その結果「ドラージュ」や「タルボ・ラーゴ」など、多くの名門がその命運を途絶えさせる中、モールスハイムの荘園を取り戻す裁判には勝訴したものの、会社牽引の原動力たるエットレやジャンはすでに亡かった。

戦前型T57の焼き直しとも言える「T101」でお茶を濁していたブガッティにかつての栄光が再訪するなど、もはや見果てぬ夢だったのだ。

最後の生産車T101は6台を製作しただけに終わり、その6台目のシャシーには「fini(おわり)」のプラークが付けられたと言われる。

1963年7月末日を以って、モールスハイムは親会社となることが決定したかつてのライバル、イスパノ・スイザ社に全設備を移管するため、ついに業務停止と工場閉鎖の憂き目を見ることとなった。

同年7月22日、モールスハイムで支給された最後の給料袋には「ル・パトロン」時代からの熟練工を含むすべての従業員に宛てて、ブガッティ家からの謝意を記した一通の手紙が添えられていた。

この日、自動車の芸術性を飽くことなく追い求め続けた孤高のカリスマ的コンストラクターは、自動車史の表舞台から静かに姿を消したのである。

しかし、ブガッティとその芸術を愛する愛好家たちの中で、その伝説は綿々と語り継がれることになる。ブガッティ終焉から四半世紀を迎えた1987年、イタリアにてこのブランドの復活を実現したロマーノ・アルティオーリも、そんなブガッティ伝説を幼時から信奉する一人であった。

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