20世紀末、復活したブガッティに忍び寄る暗い影
ブガッティの開祖、エットレ・ブガッティの母国であるイタリアに生を受けた実業家、ロマーノ・アルティオーリが復活させたブガッティは、1980年代末に彗星のごとく現れ、あっという間にスーパーカー界の寵児となったのだが、その栄光は長くは続かなかった。「第2期ブガッティ」とも呼ばれるこの時代、ブガッティの日本事務所である「ブガッティ・ジャパン」に勤務した経歴をもつ筆者が、ブガッティ栄枯盛衰のストーリーを語る。
起死回生の切り札、EB112のプロジェクトが頓挫
財政面では暗い影が忍び寄りつつあったものの、1994年上半期は第2期ブガッティにとって最も輝いた時期となった。この年のル・マン24時間レースでは、フランスの自動車専門誌『エシャップマン』とのコラボで、のちにF1にも乗るJ.C.ブイヨン選手や前年のル・マン勝者エリック・エラリー選手などの名手とともに、ブガッティとしては1939年の総合優勝以来55年ぶりのエントリーを実現。ル・マン用に仕立てたEB110SSはリタイアしてしまうものの、速さと存在感を存分にアピールすることができた。
そして、そのル・マンに先立つこと2週間前となる1994年6月7日、アルティオーリのブガッティ帝国は、まさに絶頂とも言うべき日を迎えた。
例年、世界各国のブガッティ愛好家クラブが持ち回りで開催している「インターナショナル・ブガッティ・ラリー」は、この年イタリアに開催地の順番が回ってきていた。本拠イタリアの開催ということで、実質的なオーガナイザーとなっていた新生ブガッティ・グループは、驚くべきことに有史以来自動車が入城したことがないことで知られる「悠久の水の都」ヴェネツィア本島のサン・マルコ広場に、新旧40台ものブガッティを上陸させるという歴史的な快挙を達成したのである。
このラリーには日本からも3台のEB110と、故・式場壮吉氏や松田芳穂氏などのオーナーが、それぞれ夫妻で参加されていた。
そしてイベント終了ののち、日本に正規輸入されたもう1台のEB110GTも併せてカンポ・ガリアーノ工場に入庫。パッケージ保証に規定されていたとおりのオーバーホールを加えるとともに、クーリング系などを中心に最新スペックに改良されたうえで、日本に帰国させた。この保証は日本では一律1000万円の有償とされていたが、実を言えばブガッティ・ラリーのあとに施されたオーバーホールとアップデート費用は総計2000万円を優に上回っていた。保証に規定された項目ゆえ、当然ながらこの超過費用は全額ブガッティ・アウトモービリ社持ちとなっていたのだ。
しかし、このような気前の良すぎるプロモーション活動や商品保証に加えて、英国ロータスのみならず、北米マーケット参入に備えてベクター社まで傘下に収めようとする、企業規模からすれば明らかに不相応なM&Aの連鎖が、ブガッティ・グループの経営を急速に苦しめていくことになる。
さらには、新生ブガッティにとって起死回生の切り札になるはずだった4ドアサルーン「EB112」も、プロトタイプの開発・製作費用をイタルデザインなどの各下請け会社に支払えなかったことから、生産化スケジュールは頓挫。アルティオーリのブガッティ・グループは破滅への道を全速で突き進んでゆくことになったのだ。