ICE時代の最後を飾るハイパーカーへと成長したブガッティ
1909年、開祖エットレ・ブガッティによって誕生した「ブガッティ」は、20世紀末に復活を遂げるも、あえなく崩壊。しかし、新たなパートナーを得たことにより現在では「スーパーカー」の上をゆく「ハイパーカー」の概念を象徴するような、至高のブランドへと成長を遂げるに至った。元ブガッティ日本事務所に勤務した経歴をもつ筆者が、名門ブガッティのストーリーを辿るシリーズ。最終回では、フォルクスワーゲン・グループ傘下で復興を遂げた、現在のブガッティについてお話ししたい。
新幹線の車中で閃いたピエヒ博士のアイデアが、すべての始まりだった
1987年にイタリアの実業家、ロマーノ・アルティオーリ氏によって創業された「ブガッティ・アウトモービリ」社(通称・第2期ブガッティ)だが、それからわずか7年後、1995年に破綻してしまう。しかし、偉大なブガッティのブランドネームが消え去ることはなかった。
新たな「ル・パトロン(親方)」となったのは、20世紀後半における最上級の自動車エンジニアにして、世紀の変わり目の時期にはメーカー経営者としても絶大な影響力を揮ったカリスマ、フェルディナンド・ピエヒ博士の率いる独・フォルクスワーゲン・グループである。
すべての始まりは、1997年のある日、東京~名古屋間を走る新幹線の車中にてピエヒ博士が発案した、ひとつの驚異的なアイデアにさかのぼる。そのアイデアとは、VWの挟角V型6気筒エンジン「VR6」のシリンダーを扇状に60度ずつ、三方に組み合わせたW型18気筒ユニットについてのものだった。
このW18エンジンは、当初自然吸気として開発された。6.25Lの排気量から555psを発生するとともに、例外的にスムーズなドライバビリティも提供することを目標に設定。前世紀の常識を覆すようなハイパースポーツカー、あるいは超高級サルーンにも転用可能とする、理想的な高性能エンジンになるとうたわれていた。
こうして、自ら発案したプロジェクトに向けて邁進することになったピエヒ博士だが、この時の彼にはひとつだけ無いものがあった。それは、彼の超ド級エンジンに相応しいブランドである。この時代、ベントレーやランボルギーニも掌中に収めていた彼は、手持ちのもの以上に豊かなキャリアを持つ、エクスクルーシヴなブランドを求めることになった。
そこで、個人的にもエットレ時代のブガッティの名作をコレクションしていた博士は、アルティオーリ氏が所有しつつも破綻状態にあった「ブガッティ」の商標権を獲得することを決意。すでに買収していたベントレーよりもさらに上級となるブランドとしてブガッティを据え、グループのシンボルにする方針とした。
新生ブガッティは矢継ぎ早にコンセプトカーを発表
そして1998年にVWグループがブランドを正式獲得。かつてエットレ時代の本拠地だった仏・モールスハイムに「ブガッティ・オトモビルS.A.S.」社を創立した直後から、ピエヒ博士は迅速な行動に出る。
博士のプランは、アルティオーリ氏の夢にも近いものだった。それは1920~30年代の最盛期に、ブガッティ・ブランドの開祖エットレ・ブガッティが実現した世界観を復活させること。そして、自ら構築した超多気筒エンジンのアイデアから発展し、ビスポークないしは少量製作の超ド級スーパースポーツを製作するというものだった。
1998年、パリ・サロンにて発表された新生ブガッティの第1作「EB118」は、イタルデザイン社との共同開発。アルティオーリ時代に幻のまま終わった「EB112」の基本設計をベースに、W型18気筒エンジンをフロントに搭載し、4輪を駆動する贅沢きわまりない2ドア・クーペとされた。
また翌1999年ジュネーヴ・ショーにはEB118の4ドア版「EB218」。同年のフランクフルトでは初のミッドシップ・スーパーカー「EB18/3シロン」(シロンはエットレ時代にブガッティT35などで大活躍したGPドライバーの名)。そして直後の東京モーターショーでは同じくミッドシップの「EB18/4ヴェイロン」(ヴェイロンはブガッティT57Gで1939年ル・マン24時間に優勝したドライバーの名)と、新生ブガッティは矢継ぎ早にコンセプトカーを発表する。
そして、エットレ時代と同じくモールスハイムに瀟洒な専用ファクトリー「メゾン・ブガッティ」も設立。「市販化は間近である」と力強くアピールしたのだ。