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「最善か、無か」以外にもあったメルセデス・ベンツ名言集。歴代エンジニアのクルマへのこだわりがハンパありません!

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: メルセデス・ベンツAG/妻谷コレクション

Alfred Neubauer (アルフレッド・ノイバウアー:1891年〜1980年)

「何といっても、レース。レースなしでは、私は半分死んだも同然なんだ!」

「偉大なレース監督」と呼ばれる。昔はドライバーは誰が自分の前を走っているのか、また誰が後ろについているのか、それどころかレース中、自分自身の順位すら知る方法がなかった。

そこで、彼はレーシングチームのマネージメントを専門に行うという役割の重要性に気づき、メルセデス・ベンツレース監督(ドイツ語ではRennleiter=レンライター)として、レース中の状況やドライバーが取るべき戦術判断を「一連の色つきの旗や板(数字と文字を表示)」を用い、ドライバーに伝達する「ピットサイン」を1926年、アフスのGPにて初めて考案した。

彼は体のすみずみまで活気に満ち溢れた「活動家」であり、レース中は精力的に足早で動きまわり、ピットの中では「厳格であり勇気と沈着性」を持ち合わせ、レースにかける「情熱」は並々ならぬものであった。そして、メルセデス・ベンツレース監督として数多くの勝利を手中にした。しかし、ひとたびレースを離れれば実に優しい好人物で誰からも愛され、美術の愛好家でもあった。

Bruno Sacco(ブルーノ・サッコ:1933年〜)

「メルセデス・ベンツは、常にメルセデス・ベンツの姿をしており、メルセデス・ベンツの真価と言える革新の継続や伝統を尊ぶといった、全ての価値を象徴するものであるべきだ!」

「ミスター・デザイン」とも呼ばれる。ブルーノ・サッコは1933年にイタリアで生まれる。1957年にトリノ駐在ドイツ領事の計らいで1958年に当時のダイムラー・ベンツ社への採用が決まり、スタイリング・デザイナーとなったのち、1958年から1999年までメルセデス・ベンツで活躍し「世界的に有名なカーデザイナー」となる。しかも1974年から1999年までの長期に亘り、メルセデス・ベンツの「スタイリング・デザイン部長」を務めた。

ブルーノ・サッコ

彼の手になるデザインの代表作品として、1973年のESF22(安全実験車)、1978年のC111-III、1979年のSクラスセダン・クーペ(W126シリーズ)、1982年の190E(W201)、1985年のEクラスセダン/クーペ/コンバーチブル/ステーションワゴン(W124シリーズ)、1989年のSLクラス(R129)、そして1991年のSクラスセダン・クーペ(W140シリーズ)が挙げられる。

特に、このW140のSクラスのサイドプロテクターは「サッコ・プレート」として有名。彼は41年間も「メルセデス・ベンツブランドの価値」を維持する責務を果したのである。

彼はカーデザイナーとして数々のメルセデス・ベンツのデザインを担当してきたが、メルセデス・ベンツが過去に築き上げた「伝統」を考慮。「保守的な中にもモダンな感覚」を活かし、「メルセデス・ベンツは常にメルセデス・ベンツ」であるというクルマのデザインを生み出したのである。彼は長年デザイナーとして活躍し、1997年デトロイトで「生涯デザイン達成賞」を受賞した。

Hans Werner Aufrecht(ハンス・ヴェルナー・アウフレヒト:1938年〜)

「お客様の言葉に注意深く耳を傾け、ご要望を正確に把握する。そしてお客様ひとりひとりの嗜好に合った高い品質のクルマ造りをする為、私どもの専門知識を十分に注ぎ込む!」

「AMG創立者」の中心人物。1967年に彼の兄とエンジニアのErhard Melcher(エルハルト・メルヒャ-)のわずか3人で創業し、アウトレヒトの生まれ故郷であるGroßaspach(グローサスパッハ)のそれぞれの頭文字から「AMG社」となる。

1964年、当時ダイムラー・ベンツ社のエンジン・テスト部門で働いていたアウフレヒトは、ダイムラー・ベンツ社がそれまで続けてきた300SEによるツーリングカーレース選手権への参戦を取りやめることに深い抵抗を覚えた。メルセデス・ベンツがやらないのなら、自分達の手で300SEを戦闘能力のあるクルマに仕上げるため、エンジンのチューニング作業に取り組んだ。

そして、この300SEは、1965年のドイツ・ツーリングカー選手権に参戦。10戦中ポールポジション10回、ラップレコード10回、優勝10回という圧倒的な強さを見せつけたのであった。翌年の1966年には、多くのプライベーター達がアウフレヒトとメルヒャーの所にレース用エンジンを持ち込んだのは言うまでもない。

AMGにとってチームワークこそが、成功をもたらした企業哲学である。特に、1971年ベルギー、スパ・フランコルシャン24時間レースでAMG 300SEL 6.8L(ベース6.3L)でクラス優勝し、総合でも2位に輝いた。このレースで、メルセデス・ベンツの名が1971年にモータースポーツのトップに再び登場した年として語り継がれており、しかもAMG社の力によって成し遂げられた。

AMGはお客様ひとりひとりの違う要望の仕様に仕上げるため、「お客様の言葉に注意深く耳を傾けて正確に把握し、専門知識を生かして高い品質」のクルマを造りあげたのである。

2005年にはAMG社はメルセデス・ベンツの完全子会社となり、2014年からメルセデス・ベンツファミリーに迎えられメルセデスAMGとしてメルセデス・ベンツのサブブランドとなった。ハイパフォーマンスのAMGに搭載されるエンジンは「One man-One engine(1人のマイスターがひとつのエンジンを)」という主義に従い、手作業で丹念に組み上げられている。エンジンの上に輝くマイスターのサインが刻まれたプレートは正に「クラフトマンシップ」の証しである。2000年にハンス・ヴェルナー・アウフレヒトは「ドイツ連邦共和国功労勲章」を受賞している。

* * *

メルセデス・ベンツの先駆者達が発した「情熱・信念」によるクルマ造りの伝統は現在も受け継がれ、「メルセデス・ベンツの価値」を守り続けている。これは他のブランドでは真似のできないことである。

メルセデス・ベンツの歴史は自動車の発明に続く「自動車の歴史」そのものであり、常にメルセデス・ベンツが自動車のあるべき姿、つまり「本道」を求め続け、ゴットリーブ・ダイムラーの「最善か無か」というモットーのもとで、自動車を製造し続けてきた。また、衝撃吸収式ボディを初めて採用した180シリーズ(W120)やスーパーカーの元祖とも言える300SLガルウィングクーペ(W198)など、時代を創造し、彩ってきた幾多の名車を世に送り出してきた。

しかし、「本物」とは、過去の栄光にこだわるだけではない。メルセデス・ベンツは今後も、偉大なるメルセデス・ベンツの伝統を絶やすことなく、環境の変化に対応し新たな脱炭素に向けたモビリティを追求し続けているのだ。

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  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 1949年生まれで幼少の頃から車に興味を持ち、40年間に亘りヤナセで販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特にメルセデス・ベンツ輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版のカタログや販売教育資料等を制作。またメルセデス・ベンツの安全性を解説する独自の講演会も実施。趣味はクラシックカー、プラモデル、ドイツ語翻訳。現在は大阪日独協会会員。
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