まったく運の無い奴と呼ばれたレーサー「マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ」
1930年代に「まったく運の無い奴」と呼ばれたメルセデス・ベンツのレーサー、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュ(Manfred von Brauchitsch)はチームの問題児でありました。しかし多才でひらめきがあり、メルセデス・ベンツ シルバーアロー誕生のきっかけをつくったのも彼でした。今回はその彼の運に見放された代表的なレースでのエピソードをお届けします。
勝利を目の前にしてトラブルに泣く
レースに勝つためには、熱情や蛮勇だけでは無理で、タイヤを労ったり、ガス欠を避けるために抑えて走るという冷静な総合判断力も必要である。
1935年のドイツGPで、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは追い上げるアルファ ロメオP3のタッチオ・ヌボラーリに冷静さを失ってアクセルを踏みすぎ、ボロボロになったタイヤをバーストさせて優勝を逃してしまう。それだけではなく、ニュルブルクリンクサーキットを埋め尽くした大観衆を失望させてしまった。
レースファンのためにそのレース展開の詳細を説明すると次の通りである。1935年7月28日、ニュルブルクリンクのドイツGPはタイヤのドラマとして歴史に名を残した。冷たくて湿った日であった。しかし、「シルバーアロー」によって磁石の様に引き寄せられた観客がぎっしりと詰め掛けており、30万人以上の人々がアイフェル高原の山腹や森にテントを張った。
スタートからすぐに、メルセデス・ベンツのカラッチオラがトップに立ち、続いてアルファ ロメオのヌボラーリがぴったりと続いた。シュトウックはスタートに失敗してしまい、彼のアウト・ウニオンは止まったままで、押し掛けしなければならなく、最終走者としてスタートすることに。
トップの2人に続いて、ファジオーリ(メルセデス・ベンツ)、ローゼマイヤー(アウト・ウニオン)、フォン・ブラウヒッチュ(メルセデス・ベンツ)……と続く。ヌボラーリはスタートダッシュに成功し、ローゼマイヤー、ファジオーリを追い抜いた。2周目のはじめには、ローゼマイヤーが第2位に上がり、さらにカラッチオラに迫っていた。レースは期待通り、息詰まるものとなった。
6周目に入って、スピーカーは初めて経過を伝えた。トップグループは、ほとんど同じ光景でトップからカラッチオラ、ローゼマイヤー、ファジオーリ、フォン・ブラウヒッチュ、ヌボラーリの順。まさにその時、ローゼマイヤーはピットインしなければならなかった。ヌボラーリはアクセルを踏み込み、フォン・ブラウヒッチュを追い抜いた。シュトウックは7位までポジションを上げ、観客は大いに盛り上がった。
ウェットなコースは乾き始め、アルファ ロメオのヌボラーリは、より速くなった。彼は注意深く一定したドライブの仕方で追いかけ、そして追い抜いていった。1台そしてまた1台と……。10周目の最後には、彼はトップに躍り出たが長くは続かなかった。ローゼマイヤーがすでにレースへ復帰しており、攻撃を仕掛けてきた。ローゼマイヤーは初めてカラッチオラを追い抜き、その上、ヌボラーリをも追い抜きトップに出た。
ほとんど同時に、4人のトップ・ドライバーすべてが、燃料補給とタイヤ交換の為にピットイン。ドイツ人ドライバーは45秒後に再びレースへ戻ったが、イタリア人ドライバーは秩序がなく混乱していた。2分30秒後でも、アルファ ロメオのヌボラーリは、まだピットに止まっていた。彼は暴れまくり、そして悪態をついて車から出たり入ったりしたが、作業を終えるとマシンに飛び乗り、彼は突進していった。
ピット作業でリードを築いたのだが……
タイヤの交換によって順位はめまぐるしく変わり、ここでフォン・ブラウヒッチュがトップに立った。そして距離をおいて、ローゼマイヤー、カラッチオラ、シュトウックと続く。ヌボラーリはかなり遅れている。怒りに燃え上ってはいたが、しかし自信に満ち溢れ、レースが始まった時と同じ様に絶えず一定したスタイルで周回し、遅れを取り戻していった。
ローゼマイヤーとシュトウックは再びピットインしなければならなかった。14周目の終わり頃には、ヌボラーリが第2位になり、フォン・ブラウヒッチュのリードは1分30秒に。フォン・ブラウヒッチュは、もう一度タイヤを交換するにはまだ十分な時間があると考えた。しかも、このやる気のある戦士はノイバウアー監督の指示を無視した。まだ3周残っている。両者の間隔は33秒に迫っていた。フォン・ブラウヒッチュは、より速くなった。
だが、メルセデス・ベンツのタイヤの表面が亀裂し、すでに少し白っぽいキャンバスがチラチラっと光っていた。マンフレッドは、リアタイヤだとわかったが、今やタイヤ交換するには遅すぎた。最終コーナーに入ったとき、メルセデス・ベンツのバックミラーに、ヌボラーリのアルファ ロメオがチラリと見えた。まだ、数メートルは走行可能であった。その時、バーンという音がした。ゴール直前、メルセデス・ベンツのリムからタイヤがズタズタになって飛び散ったのだ。
こうしてタツィオ・ヌボラーリはドイツGPで優勝。小柄で筋骨たくましく、細くてシャープな顔立ちのこのイタリア人は43歳という「オールド・ドライバー」にとって、偉大な日となった。旧式のアルファ ロメオが優れたシルバーアローの大群を打ち負かしたのだ。不屈、エコノミー、加えてドライブ・テクニックの勝利と言えよう。
ハンス・シュトウックは第2位に入り、自己の記録を更新した。ルドルフ・カラッチオラは不可解な病気にも拘らず、最後まで気力を維持し、第3位。ベルント・ローゼマイヤーが第4位、その後に、やっとマンフレッド・フォン・ブラウヒッチュが3輪状態で第5位にゴールした。肉体的に疲れ果て、そしてかなりショックを受けたフォン・ブラウヒッチュは、ヌボラーリの優勝者表彰をみることができなかった。
1937年、メルセデス・ベンツが満を期して投入した怪物マシンW125は見事な期待に応えた。フォン・ブラウヒッチュは1937年8月8日のモナコGPでノイバウアー監督の指示に逆らい、チームメイトのカラッチオラと激しいバトルを繰り広げる。結果としてカラッチオラの車両がトラブルに見舞われことでこのレースを制し、GPレースにおける初勝利を挙げた(メルセデス・ベンツは1位から3位を独占)。
この年、ほかのレースでもフォン・ブラウヒッチュは上位の成績を収めたかに見えたが、非選手権のドニントンGPではアウト・ウニオンのエースであるベルント・ローゼマイヤーとの間で、激しいバトルを演じ、この年のハイラトのひとつになった。このレースでも「まったく運の無い奴」らしさを発揮し、80周のレースで61周目までフォン・ブラウヒッチュがトップを走っていたが、ヘアピンコーナーでタイヤがバーストしてしまい、またもやこれが敗因となった。
新レギュレーションに合わせて新型マシンを投入
1938年は大改革の年であった。1938年~1940年まで適用された3Lレーシングフォーミュラは、スーパーチャジャーなしで最大シリンダー容積が4.5Lに、そしてスーパーチャジャー付で3Lに制限され、レーシングカーの最低重量は850kgとなった。こうして同じスタート条件が保証された。自動車メーカーはすでに短期間のうちに、半分のエンジン性能でスタート可能にしたメルセデス・ベンツのスーパーチャジャー付き3LのW154のシルバーアローに対してなすすべがないとわかった。
ヌボラーリは立腹しアルファ ロメオを去ってしまった。そして、今まで世界のレースを最も多く提供してきたアイフェルレースが中止となったのだ。その後、7月24日のドイツGPは再びニュルブルクリンクでスタート。メルセデス・ベンツ、アウト・ウニオン、アルファ ロメオなどのスーパーチャジャー付き新3Lマシン、加えてドライエの騒々しいスーパーチャージャーなしの4.5Lレーシングカーが参戦した。
ヌボラーリは、アウト・ウニオンでデビュー。彼はベルント・ローゼマイヤーの代役を務めた。ローゼマイヤーはこの年のはじめ、スピード記録挑戦の事故で亡くなっていたからだ。アルファ ロメオはこのマエストロ(名人)を失った為、新たにワークスレーシング部門、Alfa-Corseを編成したが、当然の事ながらうまく機能するはずもなかった。
プラクティスタイムによるスタートポジションには、ニュルブルクリンクの30万人以上の観客はすでに慣れていた。スタート時、ちょっとした故障がありシグナルシステムのグリーン・ライトがパッと点灯しなくなった。メルセデス・ベンツレーシング監督のアルフレッド・ノイバウアーは飛び出し、そして手でスタートの合図をした。迫力のエンジン音と共に高速マシンが消え去った。
すぐ、4台の新しいメルセデス・ベンツW154に乗ったフォン・ブラウヒッチュ、シーマン、カラッチオラ、ランクがリードした。次いで、新しい「アウト・ウニオン タイプD」に乗ったハッセ、ミューラー、そしてシュトウックがぴったりと追討する。このタイプDは、工学士のエーベラン・フォン・エーベルホルストの設計によって開発された。すでに、フェルディナンド・ポルシェ博士はフォルクスワーゲンのプロジェクトを委託され、顧問として自由になる事ができなかったのであった。
ヌボラーリは、リアエンジンを搭載した不慣れなアウト・ウニオンを操縦しながら、ウインドウに付着した数カ所のオイルの跳ねを拭き取ろうとした際、溝にはまり込みリタイアしてしまった。
新型マシンで戦いを挑むも車両火災で勝利を逃す
レースはハードな展開となり、1台また1台とリタイアしていった。人気者のカラッチオラは胃痛で苦しみ、すでにリタイアしていたヘルマン・ランクに自分のメルセデス・ベンツを引き渡した。アウト・ウニオンでは、ヌボラーリがH.P.ミューラー(ヘルマン・パウル・ミューラー)の車両に乗った。
ところで、マンフレッド・フォン・ブラウヒッチュは、稀にみるクリーンで激しいレース展開をしていた。しかし、彼は非常にイライラしチームメイトのリチャード・シーマンを追い抜き、すでに勝利を手中に納めたかの様に思えた。両者はお互い、燃料補給やタイヤ交換の為ピットイン。メカニックの不注意によって、フォン・ブラウヒッチュのタンクから燃料がパシャとこぼれた。ちょうどその時、彼はイグニションスイッチを入れ、エンジンを掛けてしまう。あっという間に、彼の車のリアは高く燃え上がった炎に包まれた。
10万人以上の喉元から途方もない恐怖の悲鳴が起こった。消火器が吹き付けられ、炎はすぐに消し止められたことで大惨事には至らなかった。そしてフォン・ブラウヒッチュは再びレースに戻った。しかし、シーマンはすでにピット・アウトしており、トップに立っていた。ハードなレースで焼け跡だらけになったこのイギリス人は25歳の若者で、メルセデス・ベンツに勝利をもたらした。一方、フォン・ブラウヒッチュは再び「まったく運の無い奴」として、優勝者表彰をみる事はなかった。
ちなみに、フォン・ブラウヒッチュはレースでは赤いレザーヘルメットをかぶっていた。そのためか、1938年からメルセデス・ベンツチームのレーサー識別用として、車体前部のグリル部に色が塗られようになり、フォン・ブラウヒッチュには赤が割り当てられた。
1939年、9月3にベオグラードで開催されたユーゴスラビアGPは、フォン・ブラウヒッチュがW154を駆ってメルセデス・ベンツチームから参戦した最後のGPレースとなった(成績は2位)。
このユーゴスラビアGPで、フォン・ブラウヒッチュはまさに戦争が始まろうとする騒然としたベオグラードの空港からスイス行きの飛行機に乗って敵前逃亡を謀ったが、アルフレッド・ノイバウアー監督に連れ戻されてレースに出たというエピソードを残している。