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打倒「GT-R」のマツダ「サバンナRX−3」が有終の美を飾った!「片山ワークスカラー」レプリカが富士を走った

1974年富士ビクトリー200kmTC-b仕様レプリカ

カペラの12A エンジンを移植して競争力をアップ

日産ワークスの「スカイラインGT-R」がツーリングカーレースを席巻していた1971年の11月にレースデビューを果たしたマツダ「サバンナ」は、ファミリアプレスト ロータリークーペの後継マシンとして位置付けられていました。

ツーリングカー・クラスでは堂々のクラス優勝を果たす

プレストよりも一回りサイズアップしたボディで、マクファーソンストラット/リーフ・リジッドのサスペンションを持ち、フロントにディスクブレーキを配したシャシーも基本形式は共通でしたが、スポーツキットを組み込んだレース仕様ではシャシー性能が大きく引き上げられていました。

レースデビューする直前の初テストでステアリングを握った片山義美選手は、エンジンパワーはワークスでチューンしていたファミリア/ファミリアプレストに比べると少し物足りないけれど、操縦性がよくなった分、早く走ることができたのでは、と分析。

実際のレースではファミリアプレスト ロータリークーペのタイムを更新し、そのポテンシャルは確認できましたが、王者であるGT-Rを打ち負かすところには至りませんでした。1969年に4ドアでデビューし、1971年からはショートホイールベース(SWB)の2ドア・ハードトップを主戦マシンとしてきたGT-Rは、4輪独立懸架のサスペンションを持ったシャシーのセットアップがいっそう進み、素晴らしいハンドリングを最大の武器としていました。もちろん、2L直6のツインカム24バルブ・エンジンも究極までパワーアップしており、倒すのは容易ではありません。

マツダのロータリー軍団にはサバンナの他にカペラ・ロータリークーペもラインアップされていました。こちらもサバンナと同様にボディは2ドアのクーペで、フロントサスペンションもサバンナと同様にマクファーソンストラットを組み付けていましたが、リアはリジッド式ながら2本のラジアスロッドをメインロッドとしサブロッドを加えた4リンク式としてシャシー性能が大きく引き上げられていましたが、何よりもエンジンのパフォーマンスアップが大きな武器でした。

ファミリアプレスト ロータリークーペやサバンナと違い、カペラのエンジンは同じ2ローターながらローターとローターハウジングの幅を10Aに比べて10mm延長して排気量を573ccとしていたことで573cc×2(ローター)×2(ロータリーの排気量換算係数)=2292ccとして、ベースモデルの最高出力も120psに引き上げられていました。

軽量コンパクトなボディに、一クラス上のパワーユニットを押し込むことは、ハイパフォーマンスなクルマを生み出す常套手段です。そこでマツダでは、サバンナのボディにカペラ用の12Aエンジンを搭載することを決断。輸出用ではロードゴーイングモデルとしてRX-3を名乗り、12Aを搭載したモデルがありましたから、その生産台数も含めて1972年の3月にはTS(特殊ツーリングカー=Gr.2)の車両公認(ホモロゲーション)を得ています。そしてサバンナRX-3の名で国内レースへのデビューは同年4月に行われた鈴鹿500km。従野孝司選手のドライブで3台のRクラスに続いて総合4位、ツーリングカー・クラスでは堂々のクラス優勝を果たしています。そしてその後も数々のレースで優勝を重ねていきました。

耐久からスプリント、そして富士のフルコースでもGT-Rを撃破

サバンナは、まだ10Aエンジンを搭載していた1971年に、11月の富士ツーリスト・トロフィーで初優勝を飾っています。が、この時はワークスGT-Rや自陣のカペラ&サバンナが次々と脱落していく消耗戦の様相を呈し、最後に残った1台ずつ、ワークスのサバンナとセミワークスのGT-Rのマッチレースとなり、GT-Rが大詰めに来てトラブルで後退。加茂進/増田建基組が薄氷の勝利を飾っています。RX-3のデビュー戦となった鈴鹿500kmは次週に行われるSCCN(スポーツ・カー・クラブ・ニッサン)主催のレース・ド・ニッポンに向けて準備中、との理由で日産ワークスが欠席しており、言わばライバル不在の不戦勝でした。

そんなマツダ・ワークスが王者GT-Rを擁する日産ワークスと、直接相まみえたのは鈴鹿500kmの1か月後に富士スピードウェイで開催された1972年日本グランプリでサポートレースとして行われたT-bレース。1969年の大会でデビュー・レース・ウィンを飾ったGT-Rは、その時以来3年連続で勝ち続けています。

しかしこの年は、迫りくるロータリー軍団の勢いを感じていたのは確かで、レース前のプライベートテストにも熱が入っていました。本番に向けては高橋国光、北野元、長谷見昌弘の3選手がワークスマシンをドライブし、久保田洋史選手ら4人の若手プライベーターが、ワークスマシン同様ルーカスのメカニカル・インジェクションを装着したGT-Rでワークスをサポートする、と完璧な体制を敷いていました。

一方、チャレンジャーのロータリー軍団は鈴鹿500kmでクラス優勝を飾っていたRX-7を片山義美、従野孝司、寺田陽次郎の3選手がドライブ。武智俊憲と岡本安広の両選手がカペラでサポートし、さらに増田建基選手らが10Aを搭載したサバンナで回りを固める、まさに鉄壁の体制で臨みます。

公式予選では片山選手と高橋選手が1、2位を分け合いますが、その後方3位以下には武智、従野、寺田の各選手が続き、さらにその後方に北野、長谷見の両選手を挟んで増田、田中俊夫(カペラ)と続き、ロータリー勢の勢いが感じられるグリッドとなりました。決勝でもロータリー軍団の優勢は変わることなく片山選手と武智選手が3位以下を大きく引き離してランデブー走行を演じ、見事1-2フィニッシュ。

3位以下は最初から最後までドッグファイトのバトルが繰り広げられていましたが最終的には従野選手が高橋選手を抑えきって表彰台を獲得しています。なおこのレースでは2001cc以上の II クラスと2000cc以下の I クラスに分けられていて、RX-3が総合優勝と II クラス優勝で、GT-Rの高橋選手が I クラス優勝となっています。

耐久レースだけでなくスプリントレースでもGT-Rに勝利したRX-3でしたが、GT-Rには最後の砦、富士の右回り6kmコースが残っていました。30度バンクで知られるこのコースを舞台に戦われていた富士グラン・チャンピオン・シリーズのサポートレース、1601cc以上のツーリングカーで争われるスーパー・ツーリングカー(ST)レースは当時、ツーリングカーの檜舞台でしたが、ロータリー軍団にとってはどうしても攻略しきれない、難攻不落の砦でもありました。

この年のSTレースでも開幕戦と第2戦は高橋国光選手が、第3戦は北野元選手がかろうじてトップを守っていましたが、その難攻不落の砦も陥落の時を迎えることになりました。第4戦では両ワークスが“肉弾戦”を演じて結果的に増田選手のカペラが優勝。少し後味が悪かったのも事実ですが、シリーズ最終戦では日産ワークスが欠場。サバンナRX-3勢が表彰台を独占することになるのですが、エースの従野孝司選手は一切力を抜くことなく、予選では驚異の1分57秒台の好タイムをマーク。決勝でも見事なポールtoフィニッシュを飾っています。

翌1973年シーズンのSTレースでは片山選手がRX-3をドライブして4戦全勝でチャンピオンに輝くと、翌1974年シーズンはGTカテゴリーのダットサン240Zと競い合うST&GTレースに改変されますが、RX-3の猛威は収まることなく連勝街道を突っ走っていきました。

今回登場した、黄色のボディにグリーンのストライプが走る1号車は、1974年シーズンのST&GTレース最終戦に片山義美選手のドライブで参戦し、見事優勝で有終の美を飾ったマシンのレプリカ・モデル。通称“片山ワークス・カラー”は今でも存在感が他を圧倒していました。

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