気になるアノ人の車遍歴を辿る
人生で何台のどんなクルマに乗ってきたか? そんな問いに対して自動車メディアに長く携わっている業界関係者に語っていただく連載が始まります。第1回目は、35年間で18台ものクルマに乗ってきた自動車ライターおよび翻訳者として活動中の武田公実さんです。その愛車遍歴を辿っていきましょう。
若気の至りでイタリア車の世界へ
これまで「AMW」および「FIAT&ABARTH FAN BOOK」などでもお話ししてきたように、筆者こと武田にとって初めての愛車となったのは、21歳の時に入手した1979年型のフィアット「X1/9 1500」。でも、このクルマとの付き合いは短いものとなってしまった。当時、日産系のグループ企業に勤務していた亡父からの提案で、翌1989年、22歳の春に日産「S13系シルビアQ’S」(1800時代)へと乗り換えることになったのだ。
現在では名車の誉れも高いS13シルビアは、誰もが認める良いクルマ。特に不満もなかったはずだった。ところが、X1/9 1500の鮮烈な体験によってイタリア車好きの「虫」が脳内に居ついてしまったのか、「コーンズ&カンパニー・リミテッド」に入社した直後、社会人1年生のクセして36回ローンを組み、1990年秋に子会社「コーンズ・モーターズ」で販売が始まったばかりだったアルファ ロメオ「スパイダー・ヴェローチェ」(5速MT)を買うという暴挙に出る。
しかもその2年後には、現在の「ガレージ伊太利屋」で社長を務めるKさんなど、イタリア車に造詣の深い周囲の諸先輩たちの反対を押し切り、キャブレター時代のマセラティ「ビトゥルボ2.5」に乗り換えるのだが、結局そのクルマも1年を待たずしてイタリアに渡る留学資金へと化けてしまうという、今になって振り返ってみれば、自分自身のことながら気恥ずかしくなってしまうような黒歴史を歩みはじめていた。
アルファ ロメオが車歴の大部分を占めた30代
筆者がイタリアに留学していた1993〜1994年ごろ、なぜか彼の地ではマツダ「MX-3」が若きエリートたちの間でちょっとした人気車となっていたという。あの時代の欧州ではいくつか見られた、自動車専門のタブロイド週刊誌で見たような話を鵜吞みにしたまま日本に帰国した筆者は、早々に日本版のユーノス「プレッソ V6」を買うことになる。
しかし、またぞろ数年で「イタリア車の虫」が騒ぎ出したことから、ランチア「デドラi.e.」(ノンターボ/5速MT仕様)へと乗り換えたものの、これがとんでもなく壊れまくる。ならばいっそのこと、もとより夢の存在だったクラシックカーに乗るほうがマシじゃないか……? と思い、当時すでに30年落ちだった1968年型アルファ ロメオ「GT1300 ジュニア」を手に入れることとした。
このGT1300 ジュニアは、サイドウィンドウ周辺やタイヤハウス上縁に設けられた有名なリベット留めに至るまで、伝説のレーシングモデル「ジュリアGTA/GTA1300ジュニア」を正確に模した極上のレプリカ車。エンジンは1750に換装してあり、速さはもちろん、レスポンスやサウンドも素晴らしいものだった。
しかも、走行不能になってしまうようなトラブルには一度も見舞われることなく、真夏であろうが真冬であろうが、仕事から近所の買い物に至るまで、このGT1300ジュニア1台でこなす日々を送っていた。
しかしライターとしてようやく一本立ちし、遠方の取材なども自身の私有車で行かねばならなくなってきたことから、2001年に初めての二台体制、アシ車として9年落ちのアルファロメオ「164L」(右ハンドル/4速AT)を手に入れた。
この164Lは、走りも快適性も素晴らしいものだったのだが、2年ほど乗った段階でトラブルが頻発するようになったこと。また、より軽快なアルファ ロメオに乗りたいとの思いから、「145クアドリフォリオ」に乗り換えることになった。
いっぽう趣味用に残してあったGT1300 ジュニアだが、このころになると「いつかはミッレ・ミリアに参加してみたい……」などという身分不相応な夢を抱くようになったことから、2003年には本国版ミッレ・ミリアにも参加資格のある1956年型の「ジュリエッタ・スプリント」へと乗り換え。翌2004年には、イタリア・ミラノ周辺で開催されたジュリエッタのデビュー50周年記念イベントを取材するなど、アルファ ロメオ・ジュリエッタというクルマは、筆者の中で特別な存在となっていた。
さらには、アシ車も145クアドリフォリオから、デビュー以来の憧れだった「GTV3.0」に乗り換え、40歳代を間近にした筆者はアルファ ロメオとの生活を謳歌していた。