3Kエンジンで戦ったコンパクトスポーツカー
トヨタ「1600GT」から日産の「スカイラインGT-R」、そしてロータリー軍団へと覇権が移っていった国内のツーリングカーレース。当初は総合優勝を争うような大排気量車のバトルに注目が集まっていましたが、小排気量車のクラス、1300cc以下のツーリングカーレースにおけるバトルも、大排気量車のそれに遜色ない激しさを見せていました。主役となったのはトヨタの「カローラ/スプリンター」&「パブリカ」連合軍と日産の「サニー」軍団でした。
大排気量車のバトルにも遜色なかった1300cc以下のツーリングカーレース
デビュー当初のサニー、初代のB10型は排気量が1000ccで、1100ccで登場したカローラ(KE10)や、そのエンジンを搭載したパブリカ(KP30)が1300cc以下のクラスでは絶対的な王者となっていました。その王者の独走に待ったをかけたのが1200ccのA12エンジンを搭載した2代目サニー(KB110)でした。
初めてサニーがカローラ/パブリカ連合軍に一矢を報いることになったのは1970年の11月に富士スピードウェイの左回り4.3kmのショートコースを舞台に開催された全日本ストックカー富士200マイルのサポートレース、Trans Nicsレースです。
このレースは新しく始まったトランス・ニッポン・クーペ・シリーズ(Trans Nippon Coupe Series=Trans Nics)の開幕戦で、車両規定は1000cc~1500ccクラスの2ドアセダン/クーペによるレースで、同じメーカー製ならエンジンを換装しても構わないというもの。
当時人気を呼んでいたストックカー・レースに倣ったもので、厳密に言うと1300cc以下のツーリングカーレースではなく、新規定のレースとして注目を集めていて、それはそれで楽しみでしたが、車両規則の制定が遅れたことで本格的なシリーズレースの開催は翌年からとされ、初年度となるこのシーズンは現状の、1300cc以下のツーリングカーレースそのままの仕様でも参戦が可能となっていました。
そのTrans Nicsの初レースのエントリーリストは、カローラ/パブリカ軍団が圧倒的多数派を占めていましたが、たった1台だけサニー クーペが混じっていました。チューニングショップの東名自動車を主宰していた鈴木誠一さん自らがドライバーとして参戦していたのです。
まだ日産からはチューニングキットも登場していなく、40ccほど排気量を引き上げたオリジナルのチューニングでしたが走り始めると並々ならぬ競争力を発揮して周囲を驚かせることになりました。
公式予選でも鈴木選手のサニー クーペは速く、カローラ/パブリカ軍団が1分44秒台だったのに対して約2秒も速い1分42秒28をマークしてポールポジションを獲得。決勝では出遅れたものの1周目の最終コーナーで、先行する高橋晴邦(カローラ クーペ)、舘信秀、中野雅晴(ともにパブリカ)の3選手を一気にかわしてオープニングラップをトップで走り終えると、その後はそのまま独走態勢に持ち込み、結果的にはポールtoフィニッシュを飾ることになりました。
しかし、翌1971年のTrans Nicsレースは1300ccを超えるエンジンに換装したマシンも登場し、1300cc以下のツーリングカーにとっての檜舞台は、このシーズンから始まった富士グラン・チャンピオン(GC)シリーズのサポートレースでした。
マイナー・ツーリング(MT)レースと名付けられたのは翌1972年シーズンからで、1971年シーズンはTC-Aクラスと呼ばれていました。そのTC-Aクラスではサニーが3勝を挙げ鈴木誠一選手がチャンピオンに輝いていますが、全5戦のうち残り2戦は日産ワークスの「チェリー クーペ」が1勝を挙げ、残る1勝をカローラが奪っています。
さらに1972年シーズンの富士MTでは5戦のうち4戦で日産ワークスのチェリー クーペが優勝し最終戦でプライベート、田沼昭雄選手のサニー クーペが勝っていて、日産ワークスは長谷見昌弘、黒沢元治、北野元の3選手が交代でドライブしたこともあってポイントが分散。最終戦で勝った田沼選手がシリーズチャンピオンに輝いています。