「カウンタックLP400S」の第1号車が出品
2024年2月1日、ボナムスがフランス・パリで開催したオークションにおいてランボルギーニ「カウンタックLP400S」が出品されました。同車について振り返りながらお伝えします。
激動の中でも進化を続けたカウンタック
ランボルギーニというメーカーの存在を一躍世界に知らしめる原動力となったモデルといえば、V型12気筒エンジンをミッドシップするとともに、そのメカニズムを当時ベルトーネに在職していたマルチェロ・ガンディーニが描いたエレガントなボディで包み込んだミウラであることは、クルマ好きなら誰もが認めるところだろう。
だがそれは、ランボルギーニに大きな課題を与えることになる。はたしてわれわれは、このミウラを超える後継車を生み出すことができるのだろうか。ランボルギーニでチーフ・エンジニアの職にあったパオロ・スタンツァーニ、そして再びランボルギーニの12気筒ミッドシップのスタイリングを委ねられることになったガンディーニはそのプレッシャーを跳ね返し、1971年のジュネーブ・ショーで見事に天才的な一撃を披露することに成功した。
この段階ではまだプロトタイプではあったものの、それが量産化されることを誰も疑うことがなかったモデルの名は「カウンタックLP500」。じっさいその市販型は、エンジンこそ4Lに縮小され、車名も「カウンタックLP400」となったものの、1974年には納車を開始。独特な縦置きミッドシップ構造を採用したことで、操縦性や安定性はミウラのそれを大幅に上まわった。
だがカウンタックの人気とは対照的に、当時のランボルギーニは常に経営難の状況から抜け出せずにいた。1970年代半ばには、創始者であるフェルッチオ・ランボルギーニは、自身が所有する全株式をスイスの実業家、ジョルジュ・アンリ・ロゼッティとルネ・マイラーに売却しており、1978年には裁判所によりランボルギーニ社は保護手続きに入った。
続いてイタリア出身のアレッサンドロ・アルデス、そしてレイランド・ノイマーとユベール・ハーネに売却されることになるのだが、それでも最終的には1980年にランボルギーニ社は倒産。司法清算され、1981年にはジャン・クロードとパトリックのミムラン兄弟に、その経営のバトンは引き継がれたのである。カウンタックはそのような激動の中においても進化を続けたモデルだった。
定期的にメンテナンスが施された1台
1979年に当時の経営者であったルネ・マイラーの依頼で「1121070」のシャシー・ナンバーを持つ、1台のカウンタックが製作された。メタリックブルーに塗装され、ブルーのシート表皮がマッチしたこのモデルこそ、「カウンタックLP400S」の第一号車(シリーズ I )である。
このLP400Sは工場からデリバリーされることなく、1981年のジュネーブ・ショーに出品するためにさらにアップデートが施された。キャビンにはホワイトのトリムが与えられ、ホイールもシリーズ II 用のものに変更。リアスポイラーと、ボディカラーに合せたヴィタローニ・ベイビー・トルネード・リアビュー・ミラーも、この時に追加されている。
こうしてシリーズ II となった「1121070」には、新たに「1121272」のナンバーが与えられ、シャシーやエンジンのナンバリングも変更。1981年式のシリーズ II がここに誕生したのだ。
またこのモデルにはウエーバー製の45DCOEキャブレターやアンサのレーシング・エグゾースト、ワイドタイヤ、さらにはレーシング・カムシャフトといった、特別なオプションが装着されていたという説もある。
ちなみにランボルギーニは、1981年6月にはボディを30mm高めたハイボディのLP400Sを発表(シリーズ III )。その乗降性や乗車時の快適性は大幅に向上した。
ジュネーブ・ショーの会場で、あるスイスのカスタマーに購入された「1121272」は、その後2004年には現在のオーナーの手にわたり、レッドに塗装されていたボディカラーも、オリジナルのメタリックブルーに再塗装されている。
その後もレストアの作業は毎年のように続き、2014年にはミッドのV型12気筒エンジンの完全なオーバーホール、2018年にはクラッチとエアコン、最近では2023年にフロントアクスルやブレーキ、アライメントの修正、キャビンのディテールアップも行われている。現在までの走行距離は4万2600km。新車での生産から「1121272」として現在に至るまでの特別なストーリーは、車両とともに売却される各種のドキュメントでそれが証明されるという。
注目の落札価格は62万1000ユーロ(邦貨換算約9940万円)。当面大きな整備の必要がないことを考えると、これは意外にお買い得な1台といえたのかもしれない。