フルレストア済みの「ミウラP400S」が出品
2024年2月1日、ボナムスがフランス・パリで開催したオークションにおいてランボルギーニ「ミウラP400S」が出品されました。同車について振り返りながらお伝えします。
ミウラの原型はシャシーから発表された
かつてフェラーリで250GTOの開発にも従事したジョット・ヴィッザリーニが、フェルッチオ・ランボルギーニの依頼に応じて、ランボルギーニ用の新型V型12気筒エンジンの設計を開始した頃、その噂を聞きつけた若く優秀なエンジニアが続々とランボルギーニに集まり始めた。
ジャン・パオロ・ダラーラやパオロ・スタンツァーニといったメンバーは、その最も代表的なところだが、彼らに共通していたのは、いつかランボルギーニでレースに参戦したいという夢を持っていた。
だが創立者であるフェルッチオ・ランボルギーニはレースには一切の興味を持たず、むしろそれには反対の意見を貫き通した。ならばこの絶対的な権力を持つボスを説得するロードカー、つまりレースカーのベースを作ってしまおうというのが、二人の共通した考えだった。もちろんそのプロジェクトは通常の業務時間外に行われ、のちにメカニック兼テストドライバーとして入社していたボブ・ウォレスなどのメンバーもそのチームに加わった。
ランボルギーニが1965年、まずミウラの原型として発表したのは、4LのV型12気筒エンジンを横置きミッドシップするベアシャシーの「TP400」だった。ジャン・パオロ・ダラーラは、フォードのGT40に大きな憧れを描いていたが、TP400のパワートレイン構造はじつはコンパクトなミニのそれを模したものである。
シャシーもこれまでの鋼管スペースフレームから鋼板を溶接によって組み立てたモノコック・タイプに代わっていた。前後のサスペンションは400GTのそれを基本としたダブルウイッシュボーン形式。そしてこのボディのないミウラには多くのカロッツェリアの視線が集中し、結局当時はまだ新人だったベルトーネのマルッチェロ・ガンディーニに最終的なデザインの取りまとめが依頼された。
じっさいに完成されたミウラのボディはエレガントな造形であることこの上なく、1966年のジュネーブ・ショーで改めて登場した完成形のミウラ(P400ミウラ)は、まさにスポーティとラグジュアリーの究極ともいえるデザインを見る者に印象づけ、1967年になってようやくその生産が開始されたのだ。翌1968年も年末が迫った頃、早くもランボルギーニはミウラにマイナーチェンジを行った。
「ミウラP400S」の生産台数は338台
今回ボナムスのパリ・オークションに登場した「P400S」の誕生だ。第一の変更点はエンジンの圧縮比を10.4:1にまで高めたほか、インテークマニフォールドの径を拡大したことなどで、最高出力をP400ミウラの350psから、P400Sミウラでは20psアップの370psを得たこと(パワースペックには諸説あるが、ここではボナムスがカタログに記載したデータをそのまま使用する)。
そしてパワーウインドウの標準装備やエアコンのオプション選択を可能にするなど、装備面でもその魅力はかなり多くなった。もちろんそれらをフル装備すると、P400で980kgだった車重は1040kgまで増加してしまうジレンマはあったのだが……。
出品車は、トータルで338台が生産されたとされるP400Sミウラのうちの1台。シャシーナンバーは「4124」が打刻されている。1969年7月2日にパリ17区にあるインポーター、「Voitures Paris Monceau(カーズ パリ モンソー)」を通じて最初のオーナーに新車でデリバリーされるが、その後「30394」のナンバーを持つエンジンを搭載し、コーチワークも電気化学的処理によって保護、構造が強化された。
インテリアでは1968年4月からレザー・インテリアの選択も可能になった。出品車両の「4124」は、レストア済みということもありクオリティの高いキャビンが採用されていた。
そして1986年、フランスで最も有名なランボルギーニ・スペシャリストのひとりともいえるエドモン・シクレが、この「4124」を購入。ここで再び全面的なレストアの作業を受け、今回約5万3000kmの走行距離でオークションに出品した。
参考までにボナムスの提示した予想落札価格は80万〜120万ユーロ(邦貨換算約1億2800万円〜1億9200万円)。オークションはこの予想落札価格の中で決着し、その数字は95万4500ユーロ(同1億5270万円)というものだった。わずか338台しか生産されなかったランボルギーニP400Sミウラ。その価値と希少性は、これからも変わることはないだろう。