クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB

クルマを文化する
REAL CAR CULTURE

AUTO MESSE WEB(オートメッセウェブ)

  • TOP
  • CLASSIC
  • 「カウンタック」はまさに「未知との遭遇」だった! 当時のランボルギーニ本社工場の製造ラインは…【クルマ昔噺】
CLASSIC
share:

「カウンタック」はまさに「未知との遭遇」だった! 当時のランボルギーニ本社工場の製造ラインは…【クルマ昔噺】

投稿日:

TEXT: 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)  PHOTO: 中村孝仁(NAKAMURA Takahiro)/LAMBORGHINI

生産ラインにはBMW M1の文字も!

オリジナルのLP500プロトタイプは見事なほどボディラインが美しいクルマだったが、その後量産モデルとして誕生したLP400では恐らく相当に熱対策に悩んだのであろうか、ボディサイドに大きなNACAダクトが開き、サイドウィンドウ背後には巨大なエアインテークが開けられていた。

初めてサンタアガタのランボルギーニを訪れたのは確か1979年のこと。当時ランボルギーニを所有していたのはドイツ人のオーナーシップで、われわれを出迎えたのもドイツ人だった。残念ながら名前は憶えていない。

そして工場を案内してもらったが、ラインは3本。1本はカウンタック用。もう1本はウラッコだったかシルエットだったか。もう1本ラインの入り口付近にその名が書かれていたのはBMW M1であった。それについて案内してくれた人に尋ねてみると、「これはわれわれの願望です……」と答えてくれた。残念ながらその時点でBMWとの契約は破棄されていたはずで、M1BMW自身が作ることになった。

というわけで工場内にはわずかな組み立て中のカウンタック以外にクルマはなく、一方で表のカープールにはおびただしい数のフィアット127ルスティカというモデル。なんでも食をつなぐためにランボルギーニでアッセンブリーされていたようである。

いずれにせよ、16年間にわたって作り続けられたカウンタックはランボルギーニの精神的支柱でもあって、このクルマの存在が後のランボルギーニ社の価値を引き上げ、紆余曲折を経てアウディ傘下で花開くことになるのだと思う。余談ながら生産型のモデルで初めてシザーズドアを採用したのもカウンタックであった。

12
すべて表示
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 中村孝仁(NAKAMURA Takahito)
  • 幼いころからクルマに興味を持ち、4歳にしてモーターマガジンの誌面を飾る。 大学在学中からレースに携わり、ノバエンジニアリングの見習いメカニックとして働き、現在はレジェンドドライバーとなった桑島正美選手を担当。同時にスーパーカーブーム前夜の並行輸入業者でフェラーリ、ランボルギーニなどのスーパーカーに触れる。新車のディーノ246GTやフェラーリ365GTC4、あるいはマセラティ・ギブリなどの試乗体験は大きな財産。その後渡独。ジャーナリスト活動はドイツ在留時代の1977年に、フランクフルトモーターショーの取材をしたのが始まり。1978年帰国。当初よりフリーランスのモータージャーナリストとして活動し、すでに45年の活動歴を持つ。著書に三栄書房、カースタイリング編集室刊「世界の自動車博物館」シリーズがある。 現在AJAJ(日本自動車ジャーナリスト協会)及び自動車技術会のメンバーとして、雑誌、ネットメディアなどで執筆する傍ら、東京モーターショーガイドツアーなどで、一般向けの講習活動に従事する。このほか、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」で自動車関連出品の鑑定士としても活躍中である。また、ジャーナリスト活動の経験を活かし、安全運転マナーの向上を促進するため、株式会社ショーファーデプトを設立。主として事業者や特にマナーを重視する運転者に対する講習も行っている。
著者一覧 >

 

 

 

 

 

 

 

RECOMMEND

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

 

 

 

 

 

 

 

人気記事ランキング

MEDIA CONTENTS

WEB CONTENTS

AMW SPECIAL CONTENTS