1979年に製造ラインを見学!
2024年3月13日、ランボルギーニ「カウンタック」やランチア「ストラトス」のデザインを手掛けたマルチェロ・ガンディーニが死去、85歳でした。今回の「クルマ昔噺」は、ガンディーニが手掛けたランボルギーニ「カウンタック」を振り返ります。
カウンタックの誕生は多くの自動車産業に携わる人に衝撃を与えた
去る3月13日、カーデザイナーの鬼才、マルチェロ・ガンディーニが他界した。カロッツェリア・ベルトーネのチーフデザイナーとして13年間、イタリアを代表するカロッツェリアで辣腕を振るい、ベルトーネを去った後も多くの作品を残している。亡くなる2カ月ほど前、彼はトリノ工科大学で名誉工学博士号を授与され、その際に行ったスピーチが多くのメディアを賑わしていた。
残念なことに私は直接ガンディーニ本人とお話をする機会には恵まれなかったが、最後のスピーチを通じて少し彼の人となりを知る一端となったような気がする。ベルトーネに移籍して最初に生み出したとされるランボルギーニ ミウラについては、私自身もブログで取り上げたことがあるが、メディアを分断する論争にも繋がり、後年私自身がベルトーネを訪れた時、ヌッチオ・ベルトーネに直接話を聞いてもいわゆる真贋論争に明確に答えることはなかった。しかし、そんなことは彼の生み出した後のクルマの素晴らしさを見ることで吹き飛ぶのではないかと思う。
スピーチの中で彼は自動車を一人称で語っている。つまり自動車自身が彼の口を通じてわれわれに語り掛けているのであるが、自動車を擬人化して話す彼の言葉にいたく感動したものだ。また、彼はこのスピーチの冒頭に、元トリノ自動車博物館の館長だったマリエラ・メンゴッツィにこの名誉を捧げるとして話し始めているが、いくつかある後輩たちに送った言葉がある。
「ある道を究めようと思ったら、まずすべてを知ったうえで新しいものを創造すること」
およそ自動車の形とは思えないほど斬新で奇抜で、且つ整った形を持ったランボルギーニカウンタックのアイデアはこうした彼流の考え方から生まれたものなのだと感じた。
カウンタックの誕生は多くの自動車産業に携わる人にとって、衝撃を持って迎えられたと思う。その姿はおよそそれまで常識的に自動車の形を思い浮かべた人々の思考からは逸脱した、新しい創造物だったように思う。そしてそれを具現化したランボルギーニもまた素晴らしい決断をした。私にとってはまさに「未知との遭遇」だったと言っても過言ではない。
最初にこのクルマに巡り合ったのは私がアルバイトとして勤めていたスーパーカーショップでのことであった。日本上陸1号車と言われた黒のカウンタックLP400を颯爽と乗り付けたのは、レーシングドライバーとして日本グランプリにも出場した安田銀二である。その時初めていわゆるカウンタックリバースなるものをした記憶がある。メカニックの誰かに教えてもらったはずだ。
生産ラインにはBMW M1の文字も!
オリジナルのLP500プロトタイプは見事なほどボディラインが美しいクルマだったが、その後量産モデルとして誕生したLP400では恐らく相当に熱対策に悩んだのであろうか、ボディサイドに大きなNACAダクトが開き、サイドウィンドウ背後には巨大なエアインテークが開けられていた。
初めてサンタアガタのランボルギーニを訪れたのは確か1979年のこと。当時ランボルギーニを所有していたのはドイツ人のオーナーシップで、われわれを出迎えたのもドイツ人だった。残念ながら名前は憶えていない。
そして工場を案内してもらったが、ラインは3本。1本はカウンタック用。もう1本はウラッコだったかシルエットだったか。もう1本ラインの入り口付近にその名が書かれていたのはBMW M1であった。それについて案内してくれた人に尋ねてみると、「これはわれわれの願望です……」と答えてくれた。残念ながらその時点でBMWとの契約は破棄されていたはずで、M1はBMW自身が作ることになった。
というわけで工場内にはわずかな組み立て中のカウンタック以外にクルマはなく、一方で表のカープールにはおびただしい数のフィアット127ルスティカというモデル。なんでも食をつなぐためにランボルギーニでアッセンブリーされていたようである。
いずれにせよ、16年間にわたって作り続けられたカウンタックはランボルギーニの精神的支柱でもあって、このクルマの存在が後のランボルギーニ社の価値を引き上げ、紆余曲折を経てアウディ傘下で花開くことになるのだと思う。余談ながら生産型のモデルで初めてシザーズドアを採用したのもカウンタックであった。