SUVのカスタムといえば「JAOS」
「JAOS」の文字をみて、カンガルーのロゴがすぐさま思い浮かぶ人は、90年代に青春を過ごした方であろう。日本のクロカンブームを牽引し、令和のいまも日本のSUVカスタムシーンの最前線で活躍している「JAOS」の社名は、「JAPAN OFFROAD SERVICE」の略。1985年に創業し、「日本のオフロードは任せておけ」という強い想いが込められた社名である。今回のTOP INTERVIEWは、この株式会社ジャオス(JAOS CORPORATION)の代表取締役である赤星大二郎氏。まずは大学時代に取り組んだスキーを続けるために、大学卒業後に単身カナダに渡って現地スキー場で働いていたという赤星氏のクルマ遍歴に迫る。
赤星大二郎氏の愛車遍歴
──1987年公開映画『私をスキーに連れてって』のヒットで、1990年前後のバブル期はスキーだけでなく4WDのクロカンブームが訪れる。まさにその時代の流れをキャッチしたのがJAOSと言っていいだろう。赤星氏の父であり創業者の現会長赤星嘉昭氏の慧眼を物語っているのだが、そうしたこともあって、赤星氏はランドクルーザーが常に傍にあるという幼少期を過ごす。スキーに夢中になった学生時代、自身も四駆に乗っていたのかと思いきや、実はそうではないらしい。
「学生時代はクルマを所持しておらず、大学卒業後にカナダに3年ほど住んでいました。大学時代はスキー部に入った経緯で、ずっとスキー漬けの学生生活を送っており、卒業と同時にワーキングホリデーを使ってカナダに渡りました。カナダでは免許を持っていたのですが、金銭的な余裕もなく、現地で入手しやすいフォードのエスコートというファミリーカーに乗っていました。
私はどちらかといえば、クルマをトランスポーターとして使い何かをするというタイプなのです。ですからクルマは使い倒すタイプ。スキーや山遊びに行く手段としてのツールなのです。それがたまたまカナダではフォードのエスコートだったというわけです。
帰国後初めて買ったクルマがハイラックスサーフでした。ハイラックスサーフはガソリンとディーゼルの2台乗り継ぎ自社製品を装着して、足回りもちょうどBATTLEZをブランドとして立ち上げていたので、社内でテストを行っていました」
公私関係なく、常に四駆がある人生
──仕事とプライベートが完全にリンクしているクルマ選びであるが、実際にJAOSの社員は赤星氏だけでなく、ほぼ全員が四駆乗り。四駆を愛してやまない人たちばかりだ。
「その次の愛車が2ドアのジープ TJラングラーです。TJラングラーでは、オフロードやスキー、山へ行くなどして楽しんでいましたが、結婚して、子どもができると2ドアの幌ではちょっと……ということになり、ランクル70に乗り換えました。ちょうど2000年の本社機能も群馬に統一した後のことです。今でこそランクルは人気が再燃しましたが、4枚ドアでオフロードがきちんと走れて、質実剛健な姿で当時からマニアックなクルマでした」
──家族が増えたからといってミニバンを選ばないところに、赤星氏の心意気が感じられるエピソードだ。
「家族はいま子どもが4人います。そこでランクル70のトゥルーピーという、オーストラリア仕様の2ドアのロングボディでハイルーフが特徴的なモデルに乗っています。オーストラリアで走ってる姿を見て『かっこいいなぁ』と。これなら家族でキャンプにも行け、スキーにも行くことができます。
1台目のトゥルーピーは、4LのガソリンV6エンジンで、ベンチシートでしたが子どもが小さかった頃はまだ座ることができ、シートベルトももちろん装備してあるので前3人、後ろ3人、6人乗車が可能でした。
いろんなご縁があって、今は2台目のトゥルーピーに乗っています。エンジンは4.5LのV8ターボディーゼルを搭載し、ダウンサイジングが進んでいるご時世、もう今しか乗ることができないと思い乗り換えました」
スキーのために単身カナダへ
さて、大学を卒業後に日本を離れ、スキーのために単身カナダに渡った赤星氏であるが、運命は期せずしてJAOSへと繋がっていくことになる。
「カナダのウィスラーというスキー場で働いていましたが、1996年にラスベガスで毎年行われている北米最大の自動車部品見本市であるSEMAショーにJAOSとして初出展、これは日本の4WDアフターパーツメーカーとしても初めて米国SEMAショーへの出展だったのです。そのときにカナダに住んでいた私に手伝ってくれないかと打診があり、当時社内には英語ができる人材が少なかったこともあって、出展の手続きや現地コーディネーターとして手伝うことになったという経緯があります。その後、1997年以降も継続してSEMAショーに出展することになり、1997年から正式に海外事業部としてJAOSに入社したという次第です」
──赤星氏が1997年にJAOSに入社してからは、2000年に東京の本社機能を群馬工場と統合。折しも日産にゴーン氏がやってきて村山工場を閉鎖するなどのコストカッターぶりを発揮していた頃。JAOSも効率化できることはないかと模索していたという。
「2002年にモデリスタさんからランドクルーザープラドやハイラックスサーフ、RAV4、ランクル70といったSUV系のカスタマイズに関する相談を持ちかけられました。この時にモデリスタさんとお仕事ができたことは、われわれにとっても多くのメリット……たとえばモノづくりに対するアプローチの方法であったり、製品精度の高さ、デザインに関してなど、気づきも多かったのです。いろいろな意味で現在のJAOSがあるのは、この時の経験によるところが大きく、現在も良い関係が続いています。
ほかにも今年のオートサロンで発表したレクサスGXもそうです。新型のGX550は、2024年中に出るということだけアナウンスされていて発売もまだ先ですが、『OVERTRAIL』というキーワードでカスタマイズさせていただきました。
レクサスさんとの関係は、さかのぼると2022年のLXのフルモデルチェンジの頃からです。ここで『OFFROAD』というグレードが加わるのですが、『JAOSでカスタマイズについて提案してもらえないか』とお話をいただきました。レクサスのLXで何ができるだろうと考えたとき、最高峰のクルマに見合うことを考慮して、レースで使うようなインフュージョン成形のウェットカーボンを使った製品や、普段のアフターパーツではできないようなことにチャレンジしました。
新型GXでは、この『OFFROAD』というグレードが『OVERTRAIL』へと進化したのです。もともとオフロード性能の高い車両のポテンシャルをさらに引き上げた、ある意味ではトヨタでいうGRのオフロードバージョン的なポジションとして企画されたそうです。レクサスというと、どうしてもラグジュアリーなイメージが先行しがちですが、実際には堅牢でオフロード性能も極めて高い。そこで、その本来のタフな資質をわかりやすく体現しているのが『OVERTRAIL』という新たなグレードです」
ラリーで戦うことで磨かれていくパーツと人材
──新型GX550 “オーバートレイル”カスタマイズモデルを発表した東京オートサロンの話を伺っている際に、赤星氏が唯一会場で写真を撮ったブースが、ホンダだったという話に。その1枚だけ撮った写真というのが、巨大なモニターに映し出された「クルマはレースをやらなければ良くならない」という本田宗一郎氏の有名な言葉。JAOSも2003年からアジアクロスカントリーの出走車両を製作しており、赤星氏自身もコ・ドライバーとして参戦した経験を持つ。コロナ禍前の2019年にはクラス優勝を果たした。レクサスLXでの「本物の用品」とは、こうした過酷なレースからのフィードバックがあったのはいうまでもない。
「ラリーへの参戦は、モノづくりへのフィードバックに加え、人作りという側面もあります。そしていまは、そうしたわれわれの活動を動画やフォトブックなどを作って、広くユーザーさんに伝えていくことが大切だと考えるに至りました。現在はInstagramやfacebookなどの伝達手段があるので、そうしたSNSを使いながら、ユーザーさんに共感を得られるパーツを提供し、JAOSの製品に対して憧れを持ち、そして信頼して装着していただけるように発信していく所存です」
──アジアクロスカントリーラリーでクラス優勝したJAOSは、現在次なる目標を掲げてプロジェクトを進めている。それはカリフォルニア半島で開催される「SCORE BAJA 1000」へのチャレンジだ。2022年、2023年と参戦し、今年で3回目のチャレンジとなる。
「レクサスは北米市場がメインなので、北米で開催されるレースに出てみようということで、BAJA 1000に白羽の矢を立てプロジェクトをスタートしました。2023年のオートサロンでは、TEAM JAOSのLX600をTGRブースに飾っていただいて、当時まだトヨタの社長だった現・豊田章男会長から『ダカールラリーと双璧をなす世界でも類を見ないデザートレースにチャレンジして、レクサスの荒々しさを象徴するには良いんじゃないか』との言葉を頂きました。アジアクロスカントリーラリーと違い、日本人チームはほとんど出場していないためかなりアウェーの状況ですが、そうした厳しさも含めてチャレンジだと捉えることにしています」
──究極のSUVのイメージはオーバートレイル……道なき荒野を切り拓いて進む姿ではないだろうか。JAOSはこれまで、日本のSUV業界では初めてSEMAショーに出展するなど、SUV業界のパイオニア的な存在、いうなればオーバートレイルを地で行く企業だ。そのJAOSがいま、新たなチャレンジの舞台として選んだのが、BAJA 1000である。赤星氏がチームとして参戦したBAJA 1000でのエピソードを語る表情は熱がこもって明るく楽しげだ。まさしく「真剣に楽しむ」というJAOSのモノづくりの姿勢そのものである。
クルマ業界のダイバーシティを目指して
──現在NAPACに加盟しているJAOSは、NAPACに統合される以前の1990年代にはすでにASEAやJAWA、JASMAにも加盟していた経緯がある。サーキットを主戦場とするモータースポーツとは縁のないJAOSが加盟していたことは少し意外ではあるが、やはりメリットはあったのだろうか。また、今後はNAPACの一員としてどのような展望があるのだろうか。
「NAPACという傘のもとで3団体が一緒になっているので、いまは業界団体の1社として参画できればいいのかなと思って、2023年の総会以降はJAWAのみの加盟となりました。ホイールに関しては、やっぱりJAWAシールを貼っていると安心ですよね。自社の基準も相当厳しく設定しているのですが、第三者機関に見ていただくということは、襟を正すという意味でも非常に意義があります。また国土交通省に1社ではなくて1団体として認めていただいて、規制があったときにいち早く教えてもらったりとか、ユーザーの安心・安全を担保するうえで、NAPACに加盟していることは欠かせません。
これからNAPACで取り組むこととしては、NAPAC副会長 JAWA事業部長 田中知加氏に依頼されて、ドレスアップイベント委員会の理事として活動していく予定です。これまでのようにサーキットだけにこだわらず、アウトドアやSUVもブームなので、スーリーを展開している阿部商会さんなどとも一緒に盛り上げていこうと。たとえば、スーパー耐久24時間の冠をNAPACがやっています。そうしたレースに観戦にいらっしゃる方たちは、SUVに乗ってきてキャンプしながら観戦してることも多いんですね。なので、あえてサーキットにキャンピングカーを展示してみたらどうだろう、とか。あと、われわれはJAFEA(日本四輪駆動車用品協会)に加盟しているんですけど、そのJAFEAのイベントにNAPACの加盟企業が参加してみてはどうだろう、とか、現在模索しています」
──最後に、JAOSのモノづくりへのこだわりについて伺ってみた。
「四駆はニッチな業界です。そこで私の気概としては、この中でニッチトップになろう、突き抜けようということです。BAJA 1000も周りを見回して日本の企業は出ていません。アジアクロスカントリーラリーも参戦した当初は、やはり他の日本企業は出ていませんでした。
世界市場で見ると、まだまだ巨人たちがたくさんいます。そこで、まずは日本国内でしっかりやっていこうと思ってます。ご縁あって群馬に本社機能も移転しましたが、群馬県から世界へ発信していこうと考えています。グローバル基準で圧倒的な安心感や信頼感を持って提供できるパーツ作りを常に維持したいと思っています。
あとスタッフ全員が四駆乗りであるところが弊社の強みでしょうか。生粋のクルマ好き、生粋の四駆好きが集まっているプロ集団という自負があります。作り手の我々がまずはユーザーであるべきだと思いますね」