1930年代から始まったオープンモデルの物語
マセラティ「グランカブリオ」のコンセプトは4つ挙げられます。ひとつ目は「オープントップのエレガンス」、2つ目は「細部へのこだわり」、3つ目は「贅沢な素材」。そして最後に「並外れた品質」。そんな理想的で流行に左右されない自然な美しさを持つマセラティのオープンモデルは、どのような歴史をたどって現在に至るのでしょうか。
動く芸術品と評された3500GT
マセラティ初となるオープンモデルは、1931年型「4CS」と1932年型「8CM」という、レース用に誕生した2台を公道用に改良したマセラティの起源にさかのぼる。この物語は1930年代に始まり、マセラティ兄弟が会社を去る前に発表した最初のロードカーの後継モデルである、ピエトロ・フルア氏がボディを手がけた希少な「A6/G 2000スパイダー」へと続いていく。この時点では、コレクターズアイテムとして少数生産されたに過ぎなかった。
1940年代後半、マセラティはさまざまな国際モーターショーに参加し、当時の偉大なイタリア人コーチビルダーたちによってデザインされたクルマを発表するようになった。コンバーチブルのストーリーは、この頃、形になり始めていたのだ。ファン・マヌエル・ファンジオ氏が伝説の「250F」でトライデントにF1世界選手権の総合優勝をもたらした1957年、「3500GT」は初の量産ロードスポーツカーとしてジュネーブモーターショーで発表された。これは、大西洋を越えてアメリカに渡った最初のマセラティでもあった。
2年後の1959年ジュネーブモーターショーでは、ジョヴァンニ・ミケロッティ氏がデザインし、ヴィニャーレが製作した235psを発揮する3.5Lエンジンを搭載したコンバーチブル「3500GT ヴィニャーレ」を発表した。イタリアの新聞社が「動く芸術品」と評したほど、このクルマはそのスタイルで名を残す運命にあった。
ファストバッククーペをエレガントに再解釈したミストラル
1960年代、マセラティは歴史的な転換期を迎える。マセラティは車名に使っていた頭文字をやめ、風にちなんだ名前をつけるようになったのだ。その最初のモデルが、地中海に吹く強い北風にちなんだ「ミストラル」だった。ピエトロ・フルア率いるコーチビルダーによって設計されたミストラルは、ファストバッククーペをエレガントに再解釈したスパイダーとして1964年に発表された。パワフルな3.5Lまたは4.0Lの6気筒エンジンを搭載し、爽快なパフォーマンスを発揮した。
また伝説によると、ジョルジェット・ジウジアーロ氏の天才的な手腕によって生み出された「ギブリ」をガレージに置くことにこだわる理由を部下に尋ねられたヘンリー・フォード2世はこう答えたという。
「同じくらい美しいクルマができるまで、そこに置いておくんだ」