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メルセデスの「SL」の始祖は「300SL」だった。ル・マン24時間でも優勝したアイコンはなぜ生まれ、どのように発展したのでしょうか?

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TEXT: 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)  PHOTO: Mercedes-Benz AG/Mercedes-Benz Museum/妻谷コレクション(TSUMATANI collection)

プロダクションモデル:300SLガルウイングクーペと190SL

メルセデス・ベンツは、300SLプロトタイプ(W194)のレースで大勝利を収めた翌年の1953年にはすべてのレース活動を1年間休止し、300SLの市販モデルの開発に専念した。それには意味深い理由があった。

メルセデス・ベンツの目的のひとつは豪華かつスポーティな魅力をコンパクトなロードスターに移すことにあった。この素晴らしいアイデアは、ウィーン生まれで北米・東部のブランド輸入業者であるマクシミリアン・エドウィン・ホフマンが1953年に提案したものだった。当時のダイムラー・ベンツ社の経営陣とホフマンの間で行われた対話の中で、最終的に「190SLロードスター」(W121)と「300SLガルウイングクーペ」(W198)の2台スポーツカーの量産車が誕生したのである。

結果、1954年2月のニューヨーク国際オートショーでこの2台が同時発表展示された(190SLはプロトタイプ)。コンパクトで価格的にも手頃な190SLロードスター(W121)は、技術的には中型セダン(W120:ポントン)から派生したもので、直列4気筒1.9Lエンジンを搭載し105psを発揮する。

さらに、成功を収めたレーシングスポーツカーの300SLプロトタイプ(W194)のコンセプトは、とくに目の肥えた顧客向けの高性能版300SLガルウイングクーペ(W198)に受け継がれた。直列6気筒3Lで世界初のガソリン直噴エンジンを搭載し215psを誇り、世界のセレブたちに愛用された。

室内は極めて豪華に仕上げられ、標準ではレーサーのようにチェックの布張りシート、またはオプションで本革張りも注文できた。後ろの巨大なラゲッジスペースには、2点のトランクとストラップがオプションで用意されたほか、ホイールセンターノックオフなどが注文装備できた。

ボディはプロトタイプの総アルミからガルウイングドア、エンジンフード、トランクリッド以外はスチール製に。発売時価格は同世代のメルセデス・ベンツの代表的中型セダン「180」の約3倍に相当する2万9000マルク。当時の性能や装備からすれば、当然すぎる価格であると言える。一方、コンパクトで価格的にも手頃な190SLロードスター(W121)は1万6500マルクで、一般的人気を得てデートカーとしても最適だった。

当時のダイムラー・ベンツ社の経営委員会会長であるヴィルヘルム・ハスペルは、世界最大の自動車市場を擁する北米が世界輸出を成功させるための重要な機能を担っていると認識していた。

メルセデス・ベンツの北米への輸出は、すでに1952年に具体化していたのである。決定的な役割を果たしたのは、先述のマクシミリアン・エドウィン・ホフマンで、1952年7月に当時のダイムラー・ベンツ社は北米・東部の総代理店として彼と契約を締結した。当初は市販する予定のなかった300SLだが、その人気に目をつけた彼は市販することを提案し、じつに1000台もの発注を入れたのだった。

メルセデス・ベンツはホフマンの先見の明のある意見を歓迎し、それがメルセデス・ベンツSLの伝説に大きく貢献している。つまり、1954年に量産されたこの2台のスポーツカーは、現在のメルセデスAMG「SL」(R232)」にまで続く特有の伝統の始まりである。

また、当時のダイムラー・エンジン会社がフランス、ハンガリー、そして米国でもめざましい売れ行きを示したのは、ドイツの盟友スタンウェイ&サンズ(米国の有名なピアノメーカー)の後押しがあったからである。4男のスタンウェイは1888年米国のニューヨーク州にダイムラー・エンジン会社を設立し、ライセンス生産していく。

300SLロードスターの誕生

1957年、ガルウイングクーペに続いて「300SLロードスター」(W198)が登場。先述の300SLガルウイングクーペ/190SL同様に、このクルマもマクシミリアン・エドウィン・ホフマンの主導で生産された。

300SLロードスター

とくに乗降において、文字通り高い敷居となっていたサイドシルを下げるため、フレームは再設計。ドアは前開きに、ウインドウも開閉可能となった。1961年頃からこれまで大型のアルフィンドラムであったブレーキは、前のみディスクに改良されている。当時のロードスターの発売価格は3万2500マルク。クーペからラグジュアリーなロードスターへとバトンタッチされ、ここに現代のSLに続く豪奢なロードスターが完成した。

各300SLの生産台数

300SLは、ガルウイングクーペが1954年8月から1957年5月まで1400台が生産され、ロードスターが1957年2月から1963年春までに1858台生産された。また300SLは限定生産だったが、手軽に北米に輸出することを主眼として価格的にも手頃だった190SLが1955年から1963年春まで2万5881台生産された。アメリカでは現在、愛好家の集い・ガルウイングクラブが盛んに活動している。

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  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 妻谷裕二(TSUMATANI Hiroji)
  • 1949年生まれで幼少の頃から車に興味を持ち、40年間に亘りヤナセで販売促進・営業管理・教育訓練に従事。特にメルセデス・ベンツ輸入販売促進企画やセールスの経験を生かし、メーカーに基づいた日本版のカタログや販売教育資料等を制作。またメルセデス・ベンツの安全性を解説する独自の講演会も実施。趣味はクラシックカー、プラモデル、ドイツ語翻訳。現在は大阪日独協会会員。
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