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メルセデスの「SL」の始祖は「300SL」だった。ル・マン24時間でも優勝したアイコンはなぜ生まれ、どのように発展したのでしょうか?

300SL

300SLプロトタイプ(W194)

現代のメルセデス・ベンツのスポーツカーの礎

第2次大戦後、連合軍の爆撃でメルセデス・ベンツの生産工場は、ほとんど破壊されました。生産工場の復旧と戦後のマーケットに合わせた新製品の開発と生産の再開が、メルセデス・ベンツにとって急務であったのです。それがなかったら、「300SL」のモータースポーツ活動と生産もあり得なかったと言えるでしょう。そこで、1952年にレーシングカー「300SLプロトタイプ(W194)」が発表され、レース活動で輝かしい成績を築き、1954年に「300SLガルウイングクーペ」が市販された由来と、初代「300SL」シリーズにスポットを当てて紹介。名車の誕生秘話を紐解きます。

伝説の300SLとは

今や、伝説となっている高性能軽量スポーツカーである「300SL」(1952~1963年)は、その名の通り「Super Leicht」(ドイツ語でスーパーライヒト)、日本語での意味は「超軽量」である。加えてこの300SLは歴史上欠くことのできないスターでもある。

第2次世界大戦後の復興当時、GPレースはまだ本格的に実施されていなかったので、レース監督のアルフレッド・ノイバウアー、技術担当重役フリッツ・ナーリンガーたちは1951年のフランクフルトモーターショーで発表した高級車「300セダン」を基本にして新しいスポーツカーを造ることにした。

このスポーツカーをいかに開発するかは、レーサーよりも速いエンジニアと称されたルドルフ・ウーレンハウトに任されたのである。とくに、彼はレーシングドライバーを凌駕するスピードテクニックを持つエンジニアとしてあまりにも有名だ。そして1951年には、乗用車開発部長となったのである。そしてルドルフ・ウーレンハウトが生み出した、この新しいスポーツカーこそがこれから紹介する300SLである。

当初より、彼は300セダンのエンジンが非常に優れた素材であることを知っていた。そして、彼のスポーツカー構想は自動車というより航空機に近いものであった。当時自動車では考えられなかったほど複雑な力学計算がなされ、「スペース・フレーム」は何本ものパイプをつなぎながら溶接され、当時よりかなり軽量化がなされていた。

その結果、フレーム自身のウエイトは約80kg前後、エンジンは「M186」なるボア85mm×ストローク88mm、排気量2996cc、直列6気筒SOHC。3基のソレックスキャブレターで170ps/5200rpmにチューンされ、全高(重心)を低くするため、左45度傾斜して搭載された。フロントにはダブルウィッシュボーン・コイル、リアにシングルジョイント・スウィングアクスルを採用する。

この2シーターは「スペース・フレーム」のためサイドシルが非常に高く、思い切ってルーフセンターが飛行機のようにヒンジの上に開くドアを採用した。このドアは左右両方を同時に開けると、ちょうど「かもめが翼を広げたような形」なることから、たちまち「ガルウイング」と名付けられた。自重わずか860kgしかない最初の300SLプロトタイプ(W194)は、じつに240km/hというスピードを出した。

必要に迫られて生まれたガルウイングドア

このガルウイングドアの採用には、画期的なアイデアと並々ならぬ努力が注ぎ込まれていることを詳しく述べておかなければならない。

シャシーに関する限り300セダンのものは太く重いパイプ・フレームで、レースには当然不向きである。そこで、新しいスポーツカー用に全く新しいシャシーの設計が必要であった。この新しいスポーツカーは300SLと名付けることになったが、そのシャシー設計は大変難航を極めた。

文字通り、昼夜を徹してブルー・プリントを前に苦しい検討が繰り返され、最終的に全く新しいアイデアの採用に踏み切ることが決定。それは、「軽量の鋼管スペース」を組み合わせたフレーム構造で、ちょうど鳥かごを思わせる形をしていた。

軽量でありながら長手方向への圧縮と引張、捻りの応力に対しては強靭な抵抗力を持ち、軽くて剛性の高いシャシーを構成していた。そして、そのフレームにアルミパネルを張り合わせていったのである。

しかし、いったいどのようにしてドアを付けるかが問題となった。シャシー補強のためのスペース・フレームはドライバーのすぐ横、かなり高くその位置を占めている。ドライバーはちょうどレーシングカーに乗り込むようにボディ横の構造材を飛び越えて乗り込み、ドライバーはスペース・フレームの中に囲まれて座る形となった。

そこで、ひとつの答えが出された。これまでに誰も見たことのない、カモメ(gull)が左右両方の羽根を広げて飛び立つ時のような画期的なスタイルのドアが採用され、その名も「ガルウイングドア」と呼ばれるに至ったのである。しかも、乗り込む時には、どうしてもステアリングが足に当るため、ロックを外せばステアリングが手前に倒れるようにも配慮された。

メルセデス・ベンツにとって忘れることのできないこのデザインは、最初から趣味趣向で採用したのではなく、「必要に迫られて生まれた」のであった。そして、この画期的なデザインが2010年6月10日にプレス発表された「SLS AMG」の技術革新されたガルウイングドアに受け継がれたのである。

モータースポーツの活躍:300SLプロトタイプ

モータースポーツに登場したこの300SLプロトタイプ(W194)のグラマラスな姿は、地上の乗り物というより、当時から、むしろ航空機のような雰囲気であり、名門メルセデス・ベンツのレースでの快進撃というニュースにも増して、人々の目を釘付けにしたことは言うまでもない。

第2次世界大戦後、ドイツの自動車メーカーがようやく復帰を許された最初の国際レースに、メルセデス・ベンツはこの真新しい2台の300SLプロトタイプ(W194)でレースに挑戦した。時は1952年5月2日、イタリアの有名な公道レース、ミッレ・ミリアである(イタリア語で1000マイルの意味=約1600km)。

この300SLプロトタイプ(W194)には、21年前の1931年にこのミッレ・ミリアレースにてSSKで優勝したドライバーである名手ルドルフ・カラッチオラとカール・クリンクのベテラン勢が乗り込み、5月の朝靄(あさもや)をついてブレシアをスタートした。

ここに偉大な300SLプロトタイプ(W194)の活躍の火ぶたが、切って落とされた。大舞台であるこのミッレ・ミリアにていきなり2位(クリンク)、4位(カラッチオラ)入賞という幸先のよいスタートを切ったのである。

その2週間後、ベルンのスイスGPでクリンクが優勝、2位にランク、3位にリースという素晴らしい成績を残した。そして、最大の勝利は6月のル・マン24時間耐久レースで、1位(ランク/リース)・2位(ヘルフリッヒ/ニーデルマイル)を獲得し、さらにニュルブリンクリンクのレースでもオープンボディに改良した300SLプロトタイプ(W194)が1位(ランク)・2位(クリンク)・3位(リース)を独占したのである。

続いて当時のスポーツカーのビッグイベントである第3回カレラ・パナメリカーナ・メキシコでのレースで、クリンクの300SLプロトタイプが平均165.0km/hという驚くべきペースで優勝し、2位にはランクが入るなど、1952年は合計5回出場した同年の国際レースのうち4回に優勝するという圧倒的な強さを発揮した。このようにわずか1年足らずで、連勝を飾ってメルセデス・ベンツのモータースポーツ復帰に加速をつけた。

プロダクションモデル:300SLガルウイングクーペと190SL

メルセデス・ベンツは、300SLプロトタイプ(W194)のレースで大勝利を収めた翌年の1953年にはすべてのレース活動を1年間休止し、300SLの市販モデルの開発に専念した。それには意味深い理由があった。

メルセデス・ベンツの目的のひとつは豪華かつスポーティな魅力をコンパクトなロードスターに移すことにあった。この素晴らしいアイデアは、ウィーン生まれで北米・東部のブランド輸入業者であるマクシミリアン・エドウィン・ホフマンが1953年に提案したものだった。当時のダイムラー・ベンツ社の経営陣とホフマンの間で行われた対話の中で、最終的に「190SLロードスター」(W121)と「300SLガルウイングクーペ」(W198)の2台スポーツカーの量産車が誕生したのである。

結果、1954年2月のニューヨーク国際オートショーでこの2台が同時発表展示された(190SLはプロトタイプ)。コンパクトで価格的にも手頃な190SLロードスター(W121)は、技術的には中型セダン(W120:ポントン)から派生したもので、直列4気筒1.9Lエンジンを搭載し105psを発揮する。

さらに、成功を収めたレーシングスポーツカーの300SLプロトタイプ(W194)のコンセプトは、とくに目の肥えた顧客向けの高性能版300SLガルウイングクーペ(W198)に受け継がれた。直列6気筒3Lで世界初のガソリン直噴エンジンを搭載し215psを誇り、世界のセレブたちに愛用された。

室内は極めて豪華に仕上げられ、標準ではレーサーのようにチェックの布張りシート、またはオプションで本革張りも注文できた。後ろの巨大なラゲッジスペースには、2点のトランクとストラップがオプションで用意されたほか、ホイールセンターノックオフなどが注文装備できた。

ボディはプロトタイプの総アルミからガルウイングドア、エンジンフード、トランクリッド以外はスチール製に。発売時価格は同世代のメルセデス・ベンツの代表的中型セダン「180」の約3倍に相当する2万9000マルク。当時の性能や装備からすれば、当然すぎる価格であると言える。一方、コンパクトで価格的にも手頃な190SLロードスター(W121)は1万6500マルクで、一般的人気を得てデートカーとしても最適だった。

当時のダイムラー・ベンツ社の経営委員会会長であるヴィルヘルム・ハスペルは、世界最大の自動車市場を擁する北米が世界輸出を成功させるための重要な機能を担っていると認識していた。

メルセデス・ベンツの北米への輸出は、すでに1952年に具体化していたのである。決定的な役割を果たしたのは、先述のマクシミリアン・エドウィン・ホフマンで、1952年7月に当時のダイムラー・ベンツ社は北米・東部の総代理店として彼と契約を締結した。当初は市販する予定のなかった300SLだが、その人気に目をつけた彼は市販することを提案し、じつに1000台もの発注を入れたのだった。

メルセデス・ベンツはホフマンの先見の明のある意見を歓迎し、それがメルセデス・ベンツSLの伝説に大きく貢献している。つまり、1954年に量産されたこの2台のスポーツカーは、現在のメルセデスAMG「SL」(R232)」にまで続く特有の伝統の始まりである。

また、当時のダイムラー・エンジン会社がフランス、ハンガリー、そして米国でもめざましい売れ行きを示したのは、ドイツの盟友スタンウェイ&サンズ(米国の有名なピアノメーカー)の後押しがあったからである。4男のスタンウェイは1888年米国のニューヨーク州にダイムラー・エンジン会社を設立し、ライセンス生産していく。

300SLロードスターの誕生

1957年、ガルウイングクーペに続いて「300SLロードスター」(W198)が登場。先述の300SLガルウイングクーペ/190SL同様に、このクルマもマクシミリアン・エドウィン・ホフマンの主導で生産された。

とくに乗降において、文字通り高い敷居となっていたサイドシルを下げるため、フレームは再設計。ドアは前開きに、ウインドウも開閉可能となった。1961年頃からこれまで大型のアルフィンドラムであったブレーキは、前のみディスクに改良されている。当時のロードスターの発売価格は3万2500マルク。クーペからラグジュアリーなロードスターへとバトンタッチされ、ここに現代のSLに続く豪奢なロードスターが完成した。

各300SLの生産台数

300SLは、ガルウイングクーペが1954年8月から1957年5月まで1400台が生産され、ロードスターが1957年2月から1963年春までに1858台生産された。また300SLは限定生産だったが、手軽に北米に輸出することを主眼として価格的にも手頃だった190SLが1955年から1963年春まで2万5881台生産された。アメリカでは現在、愛好家の集い・ガルウイングクラブが盛んに活動している。

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