航空エンジンの開発にも携わるように
レースでの活躍と並行して、ハイヴスは研究開発にも重要な貢献を続け、シャシーのコンポーネントを破壊するまでテストできるツールを初めて導入した。また、ロイスの最新設計で製造されたテスト車両を公道でテストするという仕事も引き受けた。高速走行テストを行うのに理想的な場所としてフランスを選んだ彼は、パリとロイスの冬の別荘であるニース近郊のル・カナデルを結ぶルートを考案し、定期的に走行した。子どもの頃から自動車に憧れを抱いていた彼にとって、限りなく理想に近い仕事だったに違いない。
ハイヴスを知る人の多くは、彼の運転中の第6感についてこう語っている。
「前方の道路が空いているかどうか、コーナーを最速で通過できるラインか、あるいは減速する必要があるかどうかが本能的にわかっているようだった」
そしてハイヴスはキャリアを重ねるにつれ、自動車製品の開発だけではなくロールス・ロイスの航空エンジンの開発にも携わるようになった。1937年、彼は取締役兼工場長に就任した。彼の最も重要な役割は、自動車事業と航空エンジン事業を2つの独立した事業体に分割したことであり、これは今日に至るまで続いている。1946年には常務取締役となり、1950年には取締役会長となった。
同年、貴族称号を授与され、第1代ハイヴス男爵として並々ならぬ道のりを歩んだ。しかし、ガレージから道を歩み続けた彼はつねに控えめであり、ロイスが「ただのメカニック」と自称したのと同じように、控えめな表現で自らを表現した。ロールス・ロイス・モーター・カーズはそれには異を唱えたいという。
AMWノミカタ
天才エンジニアであるロイスの飽くなき探究心で出来上がった最上車がロールス・ロイスだと思っていたが、その裏では驚くような数々の泥臭い実験を行っていたことがわかる。そしてハイヴスのような「機械の心」を読み取れる天才エンジニアがいたからこそ、ロールス・ロイスの信頼と名声を得ることができたのであろう。ロイスもハイヴスも貧しい家庭に育ち十分な教育は受けられていないが、この絵に書いたようなサクセスストーリーの根底にあるものが「探究心」となにごとにも恐れない「チャレンジ精神」であることがわかる。そんなハイヴスの作り上げたクルマは、運転する歓びを提供してくれる存在として代々伝わっていく。