近代ロケットの父は北米ダイムラー・ベンツの役員でもあった
ドイツのヴェルナー・フォン・ブラウン博士は近代ロケットの父としてアメリカでも活躍したが、北米ダイムラー・ベンツの取締役という顔ももっていた。北米のメルセデス・ベンツ(MBNA=Mercedes-Benz North America)は、アメリカでのキャリア中にフォン・ブラウン博士にいくつかのハイエンドなメルセデス・ベンツを提供。その中でも、陸軍弾道ミサイル局(ABMA)の開発オペレーション部門長時代に提供された1959年のメルセデス・ベンツ「220Sポントンクーペ」を愛用した。
終戦直後の1946年に開発が始まった「180セダン」(W120)は、極端に物不足の時代にもかかわらずわずか7年間で完成したのだが、それはあまりにも優れた出来栄えであった。
すでにアメリカでは、1947年にカイザー・フレーザ社が先陣を切ってフェンダーとボディが一体化した「フラッシュサイド」のスタイルを採用していた(それまではフェンダーがボディから出っ張ったウイングスタイル)。これを機に世界の自動車デザインは一斉にフラッシュサイドファッションの時代へと突入していく。
1953年に登場した先述の180セダン/W120セダンは、そのフラッシュサイドを持つモデルだった。前後フェンダーがつながったスタイルを形容し、W120には「ポントン」(Ponton=箱船の意味)の通称が付いた。新設計のフロアフレームにボディを被せた独特の設計で、波状プレスを施した床はねじれ剛性が高く、同時に軽量化と低重心による走行安定性の向上にもつながった。リジッドで結合された強固な車体は、今で言う「パッセンジャーセル」を形成し、前後衝撃吸収構造の基礎を築くものだった。
整然としたジンデルフィンゲン工場で最初に生産を開始したポントンモデルは1.8L、4気筒の4ドアセダンで、「180」(ガソリン)と「180D」(ディーゼル)であった。ダブルウィッシュボーン式コイルスプリングのフロントサスペンショはエンジン、ギアボックスとともにサブフレームを介して取り付けられた。リアサスペンションは、当時メルセデス・ベンツが得意としたローピボット・シングルジョイント・スウィングアクスルだ。
1954年3月にはW180の2.2L・6気筒の高級モデル「220a」を追加した。このモデルは主にW120のボディを170mm延長して開発された。より長い直列6気筒、シングルソレックスキャブレターの85psエンジンを搭載するには100mmが必要で、そしてリアドアは70mm長くなり、余裕のある後部座席の足元スペースが確保された(2万5937台生産)。
1956年3月に発表された「220S」は、100psの2.2L直列6気筒のアップグレード版を搭載し、後に106psに性能アップした(ツインソレックスキャブレター搭載)。220Sの外観は220aとほぼ同じだが、220aで使用されていた3ピースバンパーの代わりに新しいワンピースフロントバンパーを採用。特筆すべきはフロントフェンダーとドアに沿ってクロームストリップが追加されたことだ(5万5279台生産)。
3番目のセダンであるW105は4気筒の短いセンターとリアボディに6気筒のノーズを移植して生産。直列6気筒のデチューンバージョンを搭載し、「219」モデルとして販売。さらに、1956年には220Sにショートホイールベースの新しい2ドアコンバーチブルとクーペボディが提供された(計3429台生産)。
エレガントな220Sクーペの内装はフルウッドパネルを施し、シートは革張りの豪華仕様。メーターは横長上段に速度計を置き、下段には温度、油温、水温、燃料の各計器を配し、ダッシュボード中央にはキンツレー(KIENZLEはドイツの有名な時計メーカー)の時計を採用した。加えてBecker Europa TRのラジオも装備。このエレガントで豪華な1959年の220Sクーペを、近代ロケットの父ヴェルナー・フォン・ブラウン博士が愛用したのである。