ランチアに近づくためにベルトーネが目を付けたのがフルヴィアだった
商売上手だったヌッチオ・ベルトーネは1969年に1台のランチア「フルヴィア」を手に入れる。新車ではなく友人から傷ついたフルヴィアを購入したそうだ。理由はランチアに近づきたかったからである。ランチアはその当時ピニンファリーナやザガートとの関係が深かった。セダン系こそ内製のデザインが多かったが、クーペモデルになるとほぼピニンファリーナ、それにザガートであり、ベルトーネの出る幕はなかったのである。
そこで、ベルトーネが目を付けたのがフルヴィアであった。当時フルヴィアは1965年からラリーに参戦しはじめ、イタリア国内では無敵を誇ったものの、国際格式になるとポルシェやアルピーヌといった競合に打ち勝つことはなかなか難しかった。1972年にようやくマニファクチャラーズタイトルを獲得するものの、ライバルメーカーは着実に次の手を打っていた。もっとも後にそれが成功しなかったことは歴史が証明している。すなわちアルピーヌ「A110」の後継車「A310」であったり、フォード「エスコート」の後継車(とは言えないかもしれないが)のフォード「GT70」などがそれだ。
しかしベルトーネはフルヴィアの後継車たりうるラリー車を仕立て上げるべく、ストラトス ゼロをランチアにプロポーズするのである。傷ついたフルヴィアからボディを下ろし、エンジンやサスペンションなどをミッドシップのシャシーに移築した。こうして完成したモデルは当初、「ストラトスHF」としてトリノショーにデビューする。ヌッチオ自身は成層圏の限界という意味を持った「ストラトリミタ」という名を主張したようだが、結局はHFとして登場し、のちにストラトスのプロジェクトが進行した後に、原点ということから、社内呼称だったゼロがこのクルマの名前になったようである。
ベルトーネは自身がストラトスをドライブしてランチア本社に出向いたそうである。だが、およそクルマとは思えぬ姿を見たランチアの首脳陣は、これでラリーなど考えも及ばず、初めのプロポーザルは失敗に終わるのだが、熱心だったベルトーネはその後、同じ名前で後にラリー車として大成功を収めるストラトスを開発し、見事ランチアに取り入ることになるのである。