独特なリアホイールアーチはストラトス ゼロが始まりだった
2024年3月13日、ランボルギーニ「カウンタック」やランチア「ストラトス」のデザインで知られるマルチェロ・ガンディーニが85歳で亡くなりました。この『クルマ昔噺』シリーズでは、ガンディーニ追悼企画を行ってきましたが、そのラストを締めくくるのは、ランチア「ストラトス ゼロ」です。
コクピットに座るといかに車高が低いかがわかる
車高の低さをうたった代表的なモデルとして記憶に残るのはフォード「GT40」だろう。その車高である40インチをそのまま車名に使っている。と言ってもこのGT40、もともとはフォード「GT」として生を受け、その後に40インチの車高からGT40とされている。40インチといえばメートル法に換算すると、101.6cm。たった1mの車高ということだ。
しかしこれで驚いてはいけない。世の中には限界に挑戦した車高を持つクルマが存在する。それがランチア「ストラトス ゼロ」である。
はたしてマルチェロ・ガンディーニがそれを意識したかどうかは不明であるが、おそらく現在最も車高が低いクルマは33インチしかないストラトス ゼロである。たったの83.82cm。実際にコクピットに座ってみると、いかに車高が低いかがわかる。幸運なことに筆者はその恩恵にあずかった。ストラトス ゼロのコクピットに収まった経験があるのだ。
跳ね上げたフロントウインドウと立ち上がるステアリングコラムの間に足を入れて、乗り込むその乗車姿勢は独特。ドライバーの目線から斜め前方下に作られたサイドウインドウの景色もこのクルマならではのものだった。そもそもこのクルマが動くのにビックリさせられたものである。
ストラトス ゼロが公開されたのは1970年のトリノショーでのこと。そのスタイリングがのちのランボルギーニ「カウンタック」(1971年ジュネーブショーで公開)に影響を与えたことは自明である。独特なリアホイールアーチの形状や全体のプロポーションはそっくりそのまま受け継がれている。
この独特なホイールアーチ形状は、のちにガンディーニのアイコンともいえるデザインの特徴になるのだが、これが使われたのもストラトス ゼロが最初だった。ガンディーニの中では早くからウェッジシェイプのデザインの模索が始まっており、1968年にはアルファ ロメオ「カラーボ」を作り上げている。
この1968年はウェッジシェイプ元年と言っても過言ではなく、すでにイタルデザインを立ち上げていたジウジアーロはビッザリーニ・マンタを公表。ピニンファリーナも負けじとフェラーリ「512S」を披露した。そしてこれが1970年になるとそのウェッジデザインはある意味頂点に達し、スタイリングは完全なワンモーションに発展していく。それがガンディーニ、つまりベルトーネではストラトス ゼロであり、ピニンファリーナではフェラーリ「512モデューロ」、そしてジウジアーロはVWポルシェ「タピーロ」に行き着くのである。
ランチアに近づくためにベルトーネが目を付けたのがフルヴィアだった
商売上手だったヌッチオ・ベルトーネは1969年に1台のランチア「フルヴィア」を手に入れる。新車ではなく友人から傷ついたフルヴィアを購入したそうだ。理由はランチアに近づきたかったからである。ランチアはその当時ピニンファリーナやザガートとの関係が深かった。セダン系こそ内製のデザインが多かったが、クーペモデルになるとほぼピニンファリーナ、それにザガートであり、ベルトーネの出る幕はなかったのである。
そこで、ベルトーネが目を付けたのがフルヴィアであった。当時フルヴィアは1965年からラリーに参戦しはじめ、イタリア国内では無敵を誇ったものの、国際格式になるとポルシェやアルピーヌといった競合に打ち勝つことはなかなか難しかった。1972年にようやくマニファクチャラーズタイトルを獲得するものの、ライバルメーカーは着実に次の手を打っていた。もっとも後にそれが成功しなかったことは歴史が証明している。すなわちアルピーヌ「A110」の後継車「A310」であったり、フォード「エスコート」の後継車(とは言えないかもしれないが)のフォード「GT70」などがそれだ。
しかしベルトーネはフルヴィアの後継車たりうるラリー車を仕立て上げるべく、ストラトス ゼロをランチアにプロポーズするのである。傷ついたフルヴィアからボディを下ろし、エンジンやサスペンションなどをミッドシップのシャシーに移築した。こうして完成したモデルは当初、「ストラトスHF」としてトリノショーにデビューする。ヌッチオ自身は成層圏の限界という意味を持った「ストラトリミタ」という名を主張したようだが、結局はHFとして登場し、のちにストラトスのプロジェクトが進行した後に、原点ということから、社内呼称だったゼロがこのクルマの名前になったようである。
ベルトーネは自身がストラトスをドライブしてランチア本社に出向いたそうである。だが、およそクルマとは思えぬ姿を見たランチアの首脳陣は、これでラリーなど考えも及ばず、初めのプロポーザルは失敗に終わるのだが、熱心だったベルトーネはその後、同じ名前で後にラリー車として大成功を収めるストラトスを開発し、見事ランチアに取り入ることになるのである。