伝説の巨大DTMマシン、国際オークションに現わる
2024年5月10日から11日に、地中海に面した見本市会場「グリマルディ・フォーラム」を舞台として開催されたRMサザビーズ「MONACO」オークションでは、かつてDTM選手権で実際に戦ったアウディ「V8クワトロ」が出品されたというニュースが大きな話題となりました。
4輪駆動の実力をサーキットでも証明したビッグサルーン
1984年に「ドイツ市販車選手権(Deutsche Produktionswagen Meisterschaft)」として設立、1986年に「ドイツ・ツーリングカー選手権(Deutsche Tourenwagen Meisterchaft)」という名称に移行したDTMは、ヨーロッパ大陸でもっとも権威のあるツーリングカー選手権として急速に頭角を現した。
グループAのレギュレーションが厳格に施行され、パフォーマンスベースのウェイトハンディキャップシステムにより、比較的公平な競争の場が促進されたことから、DTMはどんどん人気を高めてゆく。
1ラウンド2戦、ダブルヘッダーの「レースウィークエンド」形式が導入された1988年シーズンには、メルセデス・ベンツとBMW(2.5L以下のディヴィジョン2)、フォード(2.5L以上のディヴィジョン1)など、自動車メーカーの関心も高まっていた。
さらに1989年は「ヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)」が崩壊したこともあり、元F1パイロットのジョニー・チェコットやベルント・シュナイダー、ツーリングカー界の巨匠スティーブ・ソーパーやロベルト・ラヴァーリア、スポーツカー耐久レースのレジェンドであるクラウス・ルートヴィヒやマヌエル・ロイターといったスタードライバーが、続々とDTMへと活躍の場を移した。
フォード「シエラ」が撤退したのち、1990年シーズンからはBMW「M3」とメルセデス・ベンツ「190E 2.5-16」からなる2大巨頭の直接対決となり、両ブランドはワークスが支援する4チーム以上の体制で乗り込んできた。
ところがこのシーズンにもっとも注目を集めたのは、これまでラリーに集中していたアウディが、あまりレース向きとは思えない大柄な4ドアセダン「V8クワトロ」を擁して、ワークス唯一の排気量無制限となる「ディヴィジョン1」に初めて公式に進出を果たしたこと。しかも「シュミット・モータースポーツ」が運営する、ファクトリーサポートのV8クワトロ1台のみの体制としたことも、大いに注目されることになる。
しかし、元スポーツカー世界王者のハンス-ヨアヒム・シュトゥックが操縦したクワトロV8は、その優れた4輪駆動システムがサーキットでも有用であることを証明する。シュトゥックは22レース中7レースで勝利し、初のDTMタイトルを獲得したのだ。
そして翌1991年シーズン、シュミット・モータースポーツは2台体制に拡大し、22歳のカートの天才ヒューバート・ハウプトがシュトゥックに加わる。さらにワークスが支援する第2のチーム、フランク・ビエラとイェリンスキーのためにV8クワトロを用意した「アウディ・ツェントルム・ロイトリンゲン」チームの参戦によって、アウディの存在感はさらに高められることになる。
「エヴォリューション」仕様にアップデートされたV8クワトロの3.5Lエンジンは、約500psを発生し、新しいフロントスプリッターと高さ調整可能なリアウイングは、空力面で大きな進歩をもたらした。
BMWは当初、シーズン序盤の4レースで勝利を収めてシーズンの主導権を握ったものの、終盤の4戦で3勝を挙げたビエラは、メルセデス・ベンツのルートヴィヒを抑えて1991年シーズンのDTMタイトルを獲得する。
信じられないことに、これはメーカーがDTMタイトルを連続して獲得した初めてのケース。アウディの優位性は、ビエラがシーズン終盤のITRレース4戦中2戦で優勝し、「ITRドライバーズカップ」を獲得したことでも明らかになった。
1991年、シュトゥックにシリーズランキング3位をもたらした個体
このほどRMサザビーズ「MONACO 2024」オークションに出品されたアウディV8クワトロDTMは、もともとはシュミット・モータースポーツの所属により、1991年シーズンの開幕戦、ベルギーのゾルダー戦でレースデビューを果たした個体。シャシーナンバーは「LN000049」である
ディフェンディングチャンピオンのシュトゥックがドライブしたこのマシンは、第2戦でチェコットのBMWに次ぐ2位でフィニッシュし、ビエラの乗る同じマシンを抑えた。しかし、その後の4戦で3回のリタイアを喫したのち、アヴス戦におけるこのマシンのドライブは、当時は新進気鋭だったヒューベルト・ハウプトが引き継ぐことになった。
アウディが1日2戦のレースで表彰台を総なめにしたバイエルン戦では、第1レース4位、第2レース3位でフィニッシュした。その後マシンはシュトゥックに戻され、シュトゥックはノリスリンク、ディープホルツ、ジンゲンで3勝を挙げ、チャンピオンシップ3位を確固たるものとする。
しかし、アウディの1991年シーズンがまぎれもない勝利だったとすれば、1992年は苦しいシーズンとなった。序盤のチームのペースは、BMWとメルセデス・ベンツがクワトロの属するディヴィジョン1の最低重量を1300kgまで増やすためのロビー活動に成功したうえに、クワトロのクランクシャフトの合法性をめぐる抗議活動が頻発したことで、大幅な失速を強いられてしまう。
そして6月のニュルブルクリンク・ノルドシュライフェ戦におけるビエラとシュトゥックの1-2フィニッシュを除けば、ほかに特筆すべきリザルトは少なく、アヴス戦でのシュトゥックの6位は、シャシーナンバーLN000049にとって最後の重要なリザルトとなった。
実際、当時の政治的状況はアウディにとってあまりにも不利だったこともあって、アウディのワークス系2チームはシーズン半ばに撤退。結局ニュルブルクリンク戦は、アウディのスワンソングの象徴となってしまった。
現オーナーは、アウディの元ワークスレーサー?
退役となったのち、20年以上にわたってアウディ本社の管理下にあったシャシーナンバーLN000049は、2014年4月に元ワークスドライバーであるヒューベルト・ハウプト氏本人が手に入れる。そして、ドイツのヒュッテンハウゼンにある「イムグルント・モータースポーツ(Imgrund Motorsport)」社に委託し、1991年仕様へとフルレストアした。
この段階では、複雑な駆動システムとサスペンションのリビルド、配線や配管の引き直し、4.2Lエンジンへの換装など、さまざまな作業が行われている。この時搭載された4.2Lユニットは、オリジナルの3.5Lよりも最高回転数が低くなるかたわら、とくに低中速のトルクには優れたものとのことである。
1991年仕様の「アウディ・スポーツ」のカラーリバリーで精巧に仕上げられたシャシーナンバーLN000049は、オリジナルのレースエンジン、スペアタイヤ2セット、ワイヤーハーネスとブレーキシステム一式、現役時代のデータがダウンロードされた当時物のノートパソコンなど、豊富なスペアパッケージも添付されている。
この時代のアウディが、V8クワトロを擁してドイツDTM選手権に参戦したこと自体は、記憶している人も多いかもしれない。しかし、その活動期間はあまりにも短かったこと、あるいは事実上のワークス参戦のみでマシンの絶対数も少なかったことから、当時のエントリー車両が現代のクラシックカー市場に姿を見せる機会は、限りなく少ないのが実情である。
そんな状況のもと、レストアを終えて以来ごくわずかしか使用されていないこのマシンは、すでにFIAの「ヒストリカル・テクニカルパスポート」を取得しており、アウディV8が対象となる数多くのヒストリックツーリングカー・レースや、ヤングタイマー・ツーリングカーレースに参加するには、この上なく魅力的で競争力のある1台である、というPRフレーズとともに、RMサザビーズ欧州本社は75万ユーロ~100万ユーロという、自信たっぷりのエスティメート(推定落札価格)を設定した。
ところが、実際の競売では思いのほかビッド(入札)が伸びなかったようで、現在では65万ユーロ、日本円に換算すると約1億1000万円までプライスを下げて、継続販売となっているようだ。