モンテカルロ・ラリーの街に、美麗なストラトスが降臨
ラリー競技史上もっともアイコニックなモデルのひとつであるランチア「ストラトスHF」は、グループ4仕様のラリーマシンのみならず、ホモロゲーション取得用の量産モデルも、現在のクラシックカー市場では驚くほどの高値で取引される人気モデルです。2024年5月10日から11日に地中海に面した見本市会場「グリマルディ・フォーラム」を舞台として開催されたRMサザビーズ「MONACO」オークションでは、「The Sportiva Collection」を名乗る個人コレクターから20台以上の出品があり、その中には1台のストラダーレ版ランチア ストラトスHFがありました。そこで今回は、あらためてストラトスのモデル概要を説明するとともに、注目のオークション結果についてもお伝えします。
ランチアの名を歴史に刻んだ伝説のラリーマシンとは?
1970年代は、ロードカーとコンペティションカーの関係が今よりもはるかに緊密だった時代。なかでも、ラリー競技のためにホモロゲーションされた少量生産のスポーツカーの可能性を示したという点では、ランチアの右に出るメーカーはあり得なかった。
ただし残念なことに、当時のランチアの財政状態は火の車。しかもフィアット傘下に入っていたため、過度なモータースポーツへの傾倒は考えられなかったはずである。しかし、マネージングディレクターのウーゴ・ゴッバートは、レースやラリーにおける輝かしい戦果が、スタッフや顧客、そしてブランドアイデンティティを維持する上で、きわめて重要な役割を果たすことを理解していた。
いっぽう「フルヴィアHF」とともに、イタリア国内選手権とヨーロッパ選手権で何度も優勝させたワークスチーム「ランチア・スクアドラ・コルセ」総監督のチェーザレ・フィオリオも、1955年をもってランチアがサーキットレースから撤退したのち10年を経ていたとしても、ラリーでの勝利が依然としてブランドを活性化させていると考えていた。
とはいえ当時のラリーの現場では、名作フルヴィアHFとて老朽化が目立ち始めていた。だから、その代わりとなる万能マシンがあれば、ランチアのレーシングレガシーを引き継ぐことができるのだが、ゴッバートとフィオリオには参戦する手ごまがなかった。1970年に、故マルチェロ・ガンディーニがベルトーネ在籍中に発表した、ウェッジシェイプのミッドシップ・コンセプトカー「ストラトス ゼロ」を2人が目撃するまでは……。
もともとストラトス ゼロは、デザイン習作としての「ドリームカー」に過ぎなかった。ところがフィオリオは、より制約の少ないグループ4の規則でホモロゲーションされたコンペティションカーとして仕立て直し、500台(この時期のみの規定台数)が生産されれば、ホモロゲーション用の市販車としてカウントされることを見抜いた。
こうして1971年のトリノ・ショーで発表された「ストラトスHF」は、ゼロとは別のコンセプトカーとして開発。ボディサイズもワイドで全高もかさ上げされたストラトスHFながら、ホイールベースだけはゼロの2180mmを踏襲し、アルピーヌ「A110」よりも135mm短い。くわえて、ストロークの長いマクファーソンストラット式サスペンションと相まって、優れた操縦性が約束された。
そして設計を担当したジャン-パオロ・ダラーラや、スタイリストであるマルチェロ・ガンディーニ、そしてプロジェクトのフィクサーでもあったベルトーネは、ミッドシップ配置の鋼製センターモノコック、ボックスセクションのリア・サブフレーム、グラスファイバー製ボディパネルを採用するなど、生産化への布石が投じられてゆく。
さらに1972年には、渋るエンツォ・フェラーリをヌッチオ・ベルトーネ自身が説き伏せて、2.4L 12バルブのディーノV6エンジンをなんとか獲得。ディーノGTと同じく、横置きで搭載されることになったのだ。
ノンレストアの美車なら、1億円オーバーだって当然の結果……?
ランチア ストラトスHFのロードカーの生産は、1974年のホモロゲーションを目指して、1972年7月1日に開始された。ところが1974年10月1日にグループ4のホモロゲーションが承認されるまでの段階で、ベルトーネが完成車として組み立てたのは147台に過ぎなかったという。
それでも、24カ月の間に規則を満たすだけのモノコックとボディパーツは作り上げてあり、それで何とかFIAを納得させ、ホモロゲ取得に至ったという記録が残っている。これらのパーツは1975年までにアセンブルされ、資料にもよるが491台から498台が製造されたというのが定説のようだ。
今回のRMサザビーズ「MONACO 2024」オークションに出品されたランチア ストラトスHFは323番目に製造されたもので、シャシーナンバー「001832」。ベルトーネによるボディナンバーは「397」で、1974年10月21日にベルトーネのグルリアスコ工場で内外装が仕立てられたのち、1975年1月9日にイタリア国内市場向けとして完成に至った。
そして、シチリア州都パレルモ在住のグイド・ビニャルディに新車として販売され、1975年2月21日に「PA 421048」のナンバープレートで登録されることになる。
ビニャルディは、2005年3月20日にボローニャのカルロ・プンジェッティに売却するまで、このクルマを30年間にわたって所有したという。さらに10年の時を経たのち、プジェッティは3人目のオーナーに売却し、その所有者は2019年にオークションに出品。この時の落札者が「スポルティーヴァ・コレクション」だった。つまりは、現在に至るまで4オーナーだったことになる。
いずれかの段階で、テールエンドのスポイラーとルーフ後端のウインドディフレクターを取り外し、ごく初期に生産されたストラトスHFと同じアピアランスとなっているものの、新車時代から現在に至るまで一切のレストアを受けていないまま、最高のコンディションを保っているとのことである。
そこで現オーナーは、入手の翌年にあたる2020年に「ランチア・クラシケ」による承認検査を受け、オリジナルのシャシーナンバーとエンジンナンバーが一致した「マッチングナンバー」であることを確認。その証明書フォルダーは、車両に添付されている。
製作から半世紀近くを経た今でもなお「アズーロ・キアーロ(ライトブルー)」の塗装は良好な状態を保っており、グラスファイバー製パネルとドアヒンジには、「397」のボディタグが一致。これはランチア本社発行のファクトリーレコードと一致する。
いっぽうインテリアでは、ブラックのアルカンターラシートがよく保たれているほか、「セレーノ(スカイブルー)」のカーペットやシートシェル、ダッシュボードも良好なコンディションにあるようだが、それは走行距離計に刻まれたマイレージが1万2000kmにも満たないことを思えば、むしろ当然のことかもしれない。
くわえてオリジナルのオーナーズマニュアル、イタリア語の小冊子、ランチア・クラシケのドキュメントも添付されているシャシーナンバー001832は、ストラトスHFのよきお手本としてコレクションにくわえられるべき1台。そんなキャッチコピーをうたいあげたRMサザビーズ欧州本社は、売り手である「スポルティーヴァ・コレクション」と協議した結果、このストラトスHFに、55万ユーロ~65万ユーロというエスティメート(推定落札価格)を設定することになった。
そして迎えた競売では、ビッド(入札)が順調に進み、59万ユーロ、邦貨換算約1億円まで値が上がったところで、競売人のハンマーが鳴り響いたのだ。
この落札価格は、近年におけるストラダーレ版ストラトスHFとしては、少しだけ高めともいえる。それは、ノンレストアの「サバイバー」でありながら、この美しいコンディションを維持していること。そして、その来歴が「ランチア・クラシケ」によって保証されているからにほかならないだろう。