高い完成度をみせた初代BRZの設計・開発の中心を担っていた人物
2012年に生まれた初代トヨタ「86」&スバル「BRZ」。設計と生産はスバルが担当し、それを主導したのが賚(たもう)STI新社長でした。共同開発に携わったトヨタのエンジニアからは、さまざまなシーンで名前が語られた、いわばスバルの辣腕エンジニアの中心的人物。難事業であったトヨタとの共同開発を見事に成功させた手腕で、今度はSTIをどのように深化させていくのか? まだ就任間もない新社長にインタビューさせていただいた。
(初出:XaCAR 86&BRZ magazine Vol.44)
心が熱くならないと、仕事に身が入らない!
2代目であるGR86&BRZの詳細が判明した時、初代の完成度の高さが証明されたのだと感じた。もちろん開発コストも強く制限されただろうし、大幅な改修にはリソースも不足していたのかもしれない。 それでも2代目の開発エンジニアたちは、ポテンシャルを高めるため効果的な修正を行い、仕上げてきた。それは初代の骨格が仕上がっていたからこそ成立したはずだ。 その初代の開発・設計を担ったのが賚 寛海さんである。ボディ設計の出身で、おそらくその役まわりに最も適した人物だったことだろう。
「たまたま運が良かっただけだと思っているんです。こういうクルマに携わることができて、おそらく技術者だったら誰もがやりたかったと思うんですね。そういう意味で、会社にも感謝しています」
トヨタ側のエンジニアから聞く堅物のイメージとは異なり、柔らかで穏やかな印象でインタビューは始まった。もちろん12年前は12歳若く、もっとテンションが強かったような気もする。まず初代との関わりから。発売後、どのくらいまでBRZに関わっていたのだろうか。
「先行開発の部署に異動してはいたんですが、しばらくはBRZも見ていました。多田さんと次はどうする? というようなハナシもしていました。イベントなどに出てほしい、といったようなハナシも来ていたんですが、全部断わっていました(笑)。人前でしゃべるのが苦手なもので……」
基本のパッケージのなかで、やれることは全部やり尽くしていました
当初トヨタ側のエンジニアがさまざまな場面に登場していたのに対して、スバル側の影が薄かったのは、賚さんが表に出なかったことも一因なのか? その後の初代の進化をどう感じていたのだろうか?
「まだボクが担当していた頃でも、もっとハイパワーにしたいとか、低重心にできないのかとか、もっと速くしたいといったような話はいろいろ出ていたんです。まわりからはターボを付けろ、というようなことも言われていたんですが、スペースがないのでそもそも付かないし、重心もあれが限界だったので、無理でした。 そういう意味では、新型になってエンジンの排気量を上げたのは良かったと思います。ボディを少し補強したり、というようなことは進化の過程でありましたけど、基本のパッケージ、レイアウトの中でやれることは全部やり尽くしていました。だから後任の人は困ったと思いますよ」
年次改良によって着実に熟成されていた初代だったが、86とBRZの距離感も変化していった。具体的には86のサスペンションセッティングがBRZに近づいていき、EPSの制御やステアリングダンパーの装着などといったBRZ側のテイストを得て、後期となってからは走りのキャラクターがかなり近いものになっていた。
トヨタさんからの知見が生きた部分がありました
「いろいろな部分で、トヨタさんがやったほうが良かった部分もあったし、細かな部分でもトヨタさんだから見えたこともありました。だからお互いさまなんですよ。確かにサスペンションのセッティングなどの判りやすい部分では86がBRZの方向に近づいて来たように見えると思うんですけど、もっと中身の部分、例えば制御だとかでは、トヨタさんの知見が生きた部分もありました。それが共同開発の価値でもあったと思っています」
新型BRZを賚さんはどのように見ていますか?
「まずエンジンの排気量が上がって、非常に乗りやすいクルマになりましたね。ボディ剛性も上がっているので、いろいろなシチュエーションで気持ちよく走れるクルマに進化したと思います。やっぱり市場に出してみないと判らないことがあります。テストコースだけじゃ、見えない部分がある。生きた道が必要なんです。それで見えてきた部分が、新型へのモデルチェンジでしっかりと盛り込まれた、という印象ですね」