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ロールス・ロイスのマスコットを最初に車両に掲げた「モンタグ」とはどんな人物?「スピリット・オブ・エクスタシー」のモデルとの公言できない関係とは

サイクスの長年のミューズであるエレノア・ソーントンをモデルにしたスピリット・オブ・エクスタシー

ロールス・ロイスの熱心なオーナーだったモンタグ氏の物語

ロールス・ロイスは今日のブランドを作り上げた歴史的な人物に焦点を当て、その誕生月に紹介しています。今回スポットライトを当てるのは、自身の所有する「シルバーゴースト」に初めてスピリット・オブ・エクスタシーのマスコットを載せた、モータースポーツのパイオニアであり、雑誌の創刊者、国会議員、そしてロールス・ロイスの熱心なオーナーであったジョン・ウォルター・エドワード・ダグラス=スコット=モンタグ氏です。

国会議員となるが、真の情熱は自動車へ向いていた

ジョン・ウォルター・エドワード・ダグラス=スコット=モンタグ(モンタギューと表記することも/以下:モンタグ)は1866年6月10日、ヘンリー・スコット(後のボーリューの初代モンタグ男爵)の長男として生まれた。イギリスのイートン校で学んだ後にケンブリッジ大学へ進学し、同大学とオックスフォード大学で学位を取得。モンタグはエンジニアリングに魅了され、短期間ながら鉄道の実務訓練を受けている。

モンタグには父親の領地による経済的安定が待っていたが、それまでの間に彼は自身で生計を立てる必要があり、1895年にニューフォレスト選挙区の国会議員となった。しかし、彼の真の情熱は自動車へ向いていた。競技ドライバーとして成功を収めた彼は自動車へ対する初期の政治的擁護者となり、当時施行されていた制限的な自動車運転法の緩和に大きな影響を与えた。

収入を補うためモータースポーツ専門誌を創刊

1898年にモンタグは初めて「ダイムラー」を購入し、すぐにロイヤル・オートモービル・クラブ(RAC)の前身であるオートモービル・クラブ・オブ・グレート・ブリテン&アイルランド(ACGB&I)に入会した。そこで彼は、同じ会員のチャールズ・ロールズ(以下:ロールズ)や、大物常任幹事のクロード・ジョンソン(以下:ジョンソン)と知り合う。この3人はすぐに親しい友人となり、モータースポーツ・トライアルに出場して楽しんだ。

そのようなイベントのひとつが1900年4月に開催された「1000マイル・トライアル」で、参加した唯一の国会議員だった。彼はダイムラーで20日間にわたるイベントを完走して銅メダルを獲得し、ロールズは優勝者として金メダルを授与された。

20世紀初頭、モータースポーツはまだ高価な趣味であり、モンタグは国会議員の給料では維持するのに苦労していた。収入を補うため、彼は友人のアルフレッド・ハームズワースのアドバイスを受けて、国内でもっとも早いタイミングにモータースポーツ専門誌を創刊した。

1902年5月28日に創刊されたこの雑誌は、『カー・イラストレイテッド(The Car Illustrated)』と名付けられ、題字には「陸海空交通ジャーナル(A Journal of Transport by Land, Sea and Air)」と威圧的なキーワードが書かれていた。

モンタグが「ライト 20 H.P」を購入したことで、3人の友情はさらに強固なものに

1906年までにこの雑誌はすっかり定着し、モンタグは委託編集者、編集者、寄稿者として活躍した。彼は常に次のスクープを探しており、ロールズとジョンソンの親密な友情によって、ロールス・ロイスの最新製品、革新技術、競争上の成功について完全に把握していた。その一方ロールズとジョンソンにとっては、権威のある自動車雑誌と、モータースポーツに強い関心を持つ有力議員の両方から貴重な支援を受けていたのである。

この関係は、ボーリューの第2代モンタグ男爵となったモンタグが1906年にロールス・ロイス「ライト 20 H.P」を購入したことで、さらに強固なものとなった。ロールス・ロイスはこの国で最高の自動車を生産し続ける限り、彼の雑誌で肯定的な報道をすることを保証されたのだった。

1907年には、マンチェスターのクックストリートにある既存の工場では需要を満たすのに十分な規模でないことが明らかになった。そこでヘンリー・ロイスは、ダービーのナイチンゲールロードに新しい工場を建設することを計画、監督し、1908年7月9日にオープンした。

「世界最高の自動車である」という名声は『タイムズ』紙が起源

才能ある彫刻家兼イラストレーターのチャールズ・サイクス(以下:サイクス)によってマスコットが製作された1908年11月13日、『タイムズ』紙の広告にこう書かれていた。

「モンタグは、6気筒のロールス・ロイスが世界最高の自動車(the best car in the world)であると宣言した」

これは、現在でもロールス・ロイスの代名詞となっているこの呼び名が正しく使われた最古の例である。翌年の1910年、ジョンソンはロールス・ロイスのオーナーの間で、自動車のフロントにコミカルなマスコットを取り付けるという流行が起きていることに気づいた。

スピリット・オブ・エクスタシー以前にウィスパーと名付けられたマスコットが製作された

モンタグが所有したロールス・ロイスにも「ウィスパー」と名付けられたマスコットを装備していたが、流行しているマスコットとはまったく異なるもので、サイクスによって造形されたものだった。

そのマスコットはサイクスの長年のミューズであるエレノア・ソーントンをモデルにしたもので、流れるようなローブを着て唇に指を当てる若い女性が製作された。これに感銘を受けたジョンソンは、サイクスにマスコットのデザインを依頼し、それが今日では「スピリット・オブ・エクスタシー」として世界的に知られている。

モンタグは1929年に亡くなるまで、熱狂的なロールス・ロイスのオーナーであり続けた。彼は4半世紀にわたってロールス・ロイスの揺るぎない友人であり、数十年にわたってロールス・ロイスの名に輝きを与えてきた。1952年、彼の息子である3代目男爵エドワードは、彼に敬意を表してイギリスのハンプシャー州ボーリューに国立モーターミュージアムを設立している。

AMWノミカタ

「世界最高の自動車」としての名声は『タイムズ』紙の広告が起源であることを知って驚いた。ユーザーからの自然発生的な評価として生まれた伝説的な言葉かと思いきや、その起源は広告のコピーライティングだった。しかしながらその言葉がいまも語り継がれ、ほかの製品にまで波及して「〜界のロールス・ロイス」と称されるには、やはり他を圧倒する製品力が伴っていたからではないか。

モンタグはここでは初めて「スピリット・オブ・エクスタシー」をクルマに付けた人物として紹介されている。このマスコットのモデルであったエレノア・ソーントンは、これをデザインしたサイクスの恋人でもありながら、モンタグとも深い関係を続けていた。

モンタグが1929年に亡くなるまで、所有するすべてのロールス・ロイス車にこのマスコットを掲げていたのは、おそらく長い間秘密にしなければならなかったエレノアへの愛を控えめに示すためだったのだろうといわれているが、サイクスはそのことを知ってデザインしたのだろうか。胸の奥が少し締め付けられる。

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