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ブランドは一朝一夕でつくれません、だから絶対にやめないし、これからも続けていきます【エンケイ株式会社代表取締役社長 三浦信氏:TOP interview】

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TEXT: AMW 西山嘉彦(NISHIYAMA Yoshihiko)  PHOTO: 横澤靖宏(YOKOSAWA Yasuhiro)

若手で編成された「アメリカプロジェクト」

1985年冬に帰国した三浦氏。現会長である鈴木順一氏の面接を受けることになり、「アメリカに工場を出すことになったから、すぐ来なさい」と請われ、再び渡米したのが1986年。当時、GMのOEMホイールを製造するために遠州軽合金(現・ENKEI)は米国に進出したばかり。そこで営業担当課長という役職を拝命し、1996年まで米国で三浦氏は従事することになる。美術──しかも作品を制作することを学んでいた三浦氏、営業職という役割に抵抗はなかったのだろうか。

「ホイールのことを学んだのは入社してからです。学生の時分は絵描きになろうと思っていたわけですから、入社したらホイールのデザインとか将来できるのかもしれないという思いはありました。どちらかというと自動車部品業界で働きたいというよりも、アメリカなり国外で仕事がしたいという思いの方が強かったですね。ですから営業職でも抵抗はありませんでした。英語が多少達者だったこともあって……。

当時、アメリカでの取引先はGMのみだったんです。浜松で毎月ホイールを10何万本作って、アメリカに輸出していた時代です。それ自体も大変なことだったわけですが、プラザ合意でぐっと円高になるために、アメリカに工場を作ったほうが有利だとGMからお誘い頂いての米国進出となったわけです。

社内では“アメリカプロジェクト”と呼んでいたチーム編成で、米国に渡りました。15名ほどのチーム編成なんですけども、その8割が23歳から26歳ぐらいの若手だったんです。私もまだ23歳だったんですけれど、われわれのひと回り上の先輩に当たるリーダーは3名。それ以外は血気盛んな20代でした。米国進出だけでなく、この人選を決めたのも現会長の鈴木です。会社のこととか事業のこととか、まだあまり理解していない20代ですけれど、ただ猛烈に体力があるので無理しても働けるし、猛烈に遊べるっていう人間が一緒でしたね。同じ釜の飯を食べた当時のチームは、いま幹部社員だったりします。

当時の社有車はシボレー アストロだったのですが、米国の免許も持っている私が運転手なんですね。金曜日の夜はアストロのリアにみんなを乗せて街に繰り出し、土曜の朝に戻ってくるという……。そして次の日はみんなでゴルフに出かけるという、いまでは考えられないほど仕事も遊びも猛烈にやっていた時代でした。いまもインディアナの工場はOEMしか作っていませんが、当時の月産2万5000本がいまや23万本にまで増えています」

現在、アメリカ合衆国だけでなくタイやマレーシア、中国、インドネシア、フィリピン、ベトナム、そしてインドなどにも生産工場を設立しているENKEI。そこで生産されるホイールのほとんどがOEMであるが、われわれが知るENKEIのイメージは、モータースポーツであり、アフターパーツとしてのホイールブランドである。

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