2027年でニュルブルクリンクは100周年を迎える
モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第23回目は、1927年にオープンしたドイツ・ニュルブルクリンクの50周年記念イベントを1977年に取材したときの印象について振り返ってもらいました。
かつてF1も走っていたニュルブルクリンク
日本の自動車が飛躍的に性能を向上させたのは、メーカーが足しげくニュルブルクリンクのコースで運動性能を熟成し始めた頃からではないかと思う。メーカーはこぞって、「ニュルで鍛えた足」を謳い文句にした時代があった。
驚いたことに、そんなところに持ち込まなくてもいいでしょ? というような3列シートのファミリーカーまでニュルで鍛え上げた。だから、日本のメーカーにとっても、海外の特にドイツブランドの高性能車にとっても、ニュルブルクリンクの通称北コース(ノルドシュライフェという)はクルマの聖地と呼んで差し支えない。
かつてはF1グランプリが開催されていたのだが、1976年にニキ・ラウダが瀕死の重傷を負う事故が起きてその危険性が指摘されて以来、北コースを使うF1グランプリは開催されなくなった。ニキ・ラウダの事故は衝撃的だった。
その頃、カナダでモントリオール・オリンピックが開催されていて、ドイツのテレビも中継していたのだが、ラウダ事故の速報が入って以後、オリンピック中継を取りやめ、ラウダ事故のニュースがテレビを支配した。つまり、ドイツのテレビにとってはオリンピックよりも地元のF1グランプリで、ニキ・ラウダが事故を起こしたというニュースの方が重要なのだということを思い知らされた一幕であった。そして今もその北コースではニュルブルクリンク24時間レースが開催され、あまり報道はされていないが死亡事故も結構起きている。
私はここを一度だけ走った(と言ってもドライバーの隣で)。新しいグランプリコースの方は自らドライブして走ったことはあるが、北コースは全長も22km以上あって、無数のコーナーがあり、F1が開催されている頃はジャンピングスポットなどと呼ばれて、4輪すべてが宙に浮くところがコース上にあった。
ここを走るには相当に走り込んでコースを覚えないとダメ。当時はロータス「オメガ」という、オペル「オメガ」をロータスがチューンしたマシンで走ったのだが、ドライバーいわく落ち葉があるから実質的に走れるラインは1本。当時はたしか1周5マルク(ユーロではない)で誰でも自分のクルマを持ちこんで走行が可能だった。そんなわけだから、その遅いクルマたちをかき分けるようにして走るので、仕方なく落ち葉の上を走るケースもあったのだが、やはりかなり怖かった。