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約10万円で手に入れたフィアット「128」が3倍近い値段に! 大学教授が私の色褪せた足車を欲しがった理由とは?【クルマ昔噺】

若かりし頃の著者とフィアット128

ドイツでは当時イタリア車が安かった

モータージャーナリストの中村孝仁氏が綴る昔話を今に伝える連載。第24回目は、ドイツで購入したフィアット「128」です。1970年代後半当時、ミュンヘンに在住していた日本人のつながりで入手し、とても気に入っていたそうですが、別れも突然やってきました。

ひとり住まいのミュンヘンにはクルマが必要!

若い時、ドイツ(当時は東西分断で西ドイツ)に留学していた。留学とは聞こえが良いが、もともと入ろうと思っていたシュトゥットガルト工科大学が聴講生を受け付けず、かといってちゃんと入学するには語学力がなさ過ぎて挫折。仕方なくドイツ語の勉強に励むべく2年少々滞在した。1976年から1978年までの間だ。

ドイツの玄関口、フランクフルトに着いてすぐに最初の挫折を味わう。1年以上日本でドイツ語の勉強をしていたので、意気揚々と電車の切符売り場に行って「シュトゥットガルトまで1枚」と言った。もちろん通じた。しかしその後がいけない。

早口のおっさん(きっとゆっくりと丁寧に説明してくれたのだとは思うが)の言うことがまるで分らない。何度か説明を受けたもののやはりわからず、業を煮やしたおっさんがポイっと切符をくれた。あとになって分かったことだが、彼が僕に訊ねたのは「片道? それとも往復? あと一等車? それとも普通車?」という質問だったのだが、それすらもわからなかったのである。

まあそれはともかくとして、2カ月ほどの語学学校における寄宿を終えた後はミュンヘンに移り住んだ。新聞で調べて契約した安いアパートは、なんとミュンヘン・オリンピック時代の選手村である。そこはBMWの本社から目と鼻の先。結果としてBMW博物館や本社周辺が散歩コースになった。

寄宿時代は学校とホストファミリーの家の往復に終始し、遠くに出かけることなど全くなかったのが、ひとり住まいのミュンヘンとなるとそうはいかない。とはいえ、クルマを買うとなると大金がいる。もともと日本にいた時代の自分のクルマを売ってお金を貯め、ようやく3カ月ほどの滞在費を捻出し片道航空券などを買ったら、もう資金は底をついている。

仕方なく親がかりで無心をしたのだが、そうは言っても大金が必要なことに変わりはなく、なんとか安いクルマを探し回った。そこで見つけたのが今回取り上げるフィアット「128」である。

日本人のつながりで手に入れたフィアット「128」

このクルマはミュンヘンに在住していた日本人のつながりで手に入れたもので、当時ミュンヘンに住んでいた人はほとんどが会社の研修などで住んでいた人たちばかり。最初に知り合ったTさんもご夫婦で会社から派遣されていた人だった。そうした人は大抵任期を終えると帰国の途に就く。その際持っていた家財やクルマを売るのだが、やはりそうしたものは格安で出てくる。タイミングよく1台売りに出たのがフィアット128だったというわけで、価格は当時のドイツマルクで700マルク。今の日本円の価値だとおよそ10万円であった。

お金と引き換えに対面した128は、2ドアのモデルでお世辞にも綺麗とは言えず、タイヤも5部山程度。ツヤ消しの淡いグリーンだった。今のようなツヤ消し塗装ではない。要は、長年手入れをせずに放置された結果、見事なツヤ消しに変身していただけの話である。でも、機関の方は売主いわく絶好調とかで、実際走らせてみても快調だった。

そこで、なんとかツヤを復活させようと磨きまくった。結果だいぶツヤは戻ったが、ピカピカというわけにはいかなかった。日本で渡航費用のために売った自分のクルマは、発売当時のホンダ「シビック」である。そしてこちらはダンテ・ジアコーザの傑作FWDだから、いくら古くてもやはりさすがはヨーロッパ車と感心させられた。

最初に知り合ったTさんはオペルの古い「カデット」に乗っていた。ドイツはドイツ車が必然的に高く、輸入車(とくにイタリア車)は価格が安かった。例えば同じような年式のフォルクスワーゲン「ビートル」が3000マルク以上するときに、フィアットだとその半分で中古が買えた。使えそうなクルマだとだいたい2000マルクぐらいはしたから、いかに700マルクが安いかわかると思う。でもTさんのオペル カデットと比べると圧倒的に走りが活発でドライブが楽しいクルマであった。

クルマを手に入れたことで行動範囲は俄然広がり、かつてのルートヴィヒ2世が築城したミュンヘン近郊のお城を3つ制覇したり、スキーリゾートとして名高いガルミッシュ=パルテンキルヒェンなど多くの観光地を訪れた。

別れは突然やってきた

危ない目にもあった。そもそも買った時点でタイヤは5部山。それが走り込んで恐らくは精々3部山程度になっていたのだろうか、タイヤを変えるお金もなかったのでそのまま乗り続けていたある日、アウトバーンで豪雨に遭遇。まあ見事なほどハイドロプレーニングに見舞われ、ヒヤヒヤもんで帰ったこともあった。1年弱乗り続けたが故障は一度もなし。じつに快調であった。

手放すつもりは毛頭なかったのだが、同じ日本人コミュニティの大学教授から相談を受けた。

「どうしても譲ってほしい。代わりに君のクルマを買ってあげる」

それならご自身で別なクルマを買えばよいのでは? と聞くと

「君が乗っていたクルマだから信用できる……」

と言うのである。しかし700マルクでは次のクルマは手に入らいないから……とお断りすると

「君が次に買うクルマに僕が2000マルク払う」

前述したように2000マルクならそこそこのクルマが手に入るのでそれに乗ることにした。128との別れはそんな感じで突然やってきたのだが、まさか2年しか滞在しないドイツで2台目のマイカーが手に入るとは思いもしなかったので、残念であると同時にすごく嬉しかった記憶もある。

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