エンツォ・フェラーリが心の支えとしていたのは家族だった
皇帝と呼ばれ、不遜とも冷徹とも称されたことのある彼は、弱冠18歳で父親も兄も亡くなり、フェラーリ家の存続を背負う立場になり、レースという常に死と直面するレーサーたちと、自社のクルマに責任を持たなければならなかった。言わば冷徹を演じ続けなければ、責任を果たすことが出来なかった。
そんな彼が心の支えとしていたのは家族だった。しかし、愛息アルフレード(愛称ディーノ=後に名車「ディーノ206/246GT」にその名が冠されたのは有名な話)が1956年に病死し、エンツォの心はその愛情の向かう先をひとつ失ってしまう。
仕事の場所では冷徹とも不遜とも称されたエンツォだが、家族に対してはとても愛情深かったのだろう。その姿が描かれるのが、映画の冒頭にまだ早朝、眠っている息子とその母親をエンジン音で起こさないように、当時の愛車プジョー「404ベルリーヌ」で家を出る場面だ。
404ベルリーヌはニュートラルにしておけば、大人ひとりでも押せるほどコンパクトな車種。エンツォは自宅の門の外まで、クルマを押し出し、自宅から離れてからエンジンをかけて走り出す。このシーンだけでも彼が決して「不遜で冷徹な男」だけであるはずがない、と観客は感じるのではないだろうか。
1957年5月12日の「ミッレ・ミリア」がやってくる
劇中で1957年5月12日に開催された「ミッレ・ミリア」が始まってからは、当時のレースカーたちの流麗な美しさに目を奪われるだろう。フェラーリ「315S」と「335S」、マセラティ「450S」など、愛らしさをたたえた流麗なボディは、現代のカーレースで使用されるクルマとはまったく違う。コンパクトにして野性的なクルマたちは、やはりCGではなく実車で見せてくれるからこその存在感なのだろう。
クルマ好きの我々にとって、クルマとは何なのだろう。移動手段、ステータス、嗜好品、自己表現。筆者自身も自動車免許を取得してから現在まで、クルマを所持しなかった時代がなく、クルマのない生活など考えられなかった。もちろんAT車はなく、チョークが付いていたクルマもあった。
とにかく手間がかかったし、クルマの機嫌を損ねれば走らない、などということもよくあった。そんな時代を知っているからこそ、すべてが管理されてしまっているクルマには面白みを感じない。便利になるのはもちろん良いことだと思うし、技術の進歩は素晴らしいと思う。
だが、本作のような1950年代、クルマは人生を生きるために必要なアイテムだった。少なくともエンツォやレーサーたちにとっては。映画はそんなことさえも語りかけているような気がするのだ。『フェラーリ』はいよいよ7月5日(金)にTOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー。ぜひ、劇場で楽しんでもらいたい。