日本の物流を支えたトヨエースをレスキュー
1950年代の日本で、商用車として活躍していたオート三輪から小型トラックの主役の座を奪ったのがトヨタ「トヨエース」でした。かつては当たり前に街中にあふれていたトヨエースも、時代の流れとともに残存数が激減し、今では非常に貴重な存在となっています。そんなトヨエースをお店で見つけ、自らの手で整備してレスキューしたという山崎さんに愛車を紹介してもらいました。
オート三輪から主役の座を奪った「トラックの国民車」
さる2024年4月14日に新潟県は三条市の三条パール金属スタジアム(市民球場)にて開催された「20世紀ミーティング 2024年春季」。バラエティに富んだ参加車両の中には何台かの商用車も含まれている。そもそも「はたらくクルマ」たちは趣味の対象というよりも仕事の道具。長年仕事で使われた後は、そのままお役御免となることが多い。街中で見かける機会も多く印象に残っている割には、同年代のセダンやスポーツカーなどに比べるとやはり現存率は低いようだ。今回のイベントに初参加となったこちらの「トヨエース」も、かつてはあれほど多く見かけたのに現在では街中で見かける機会がほとんどない1台。
かつて小型トラックの8割をオート三輪が占めていたといわれる1950年代の日本。簡便な構造で安価、小回りも効いて維持も容易なことから戦後日本の物流を支えたオート三輪だったが、やはり耐候性や操縦安定性など自動車としての完成度は4輪トラックに一歩劣る。敗戦直後の耐乏期が過ぎればオート三輪が衰退していくのは歴史の流れとも言えたが、その流れを一気に加速させ小型トラックの主役の座をオート三輪から奪ったのが、トヨタのトヨエースであった。
トヨエースは当初、「トヨペット・ライトトラック」(SKB型)という名称で1954年にデビュー。2年後の1956年に公募により「トヨエース」の名称となった同車は「トラックの国民車」とまで言われ、以来2020年までの長きにわたってトヨタの、ひいては小型トラックの代名詞として日本の物流を支え続けた。
お店に通って整備して、解体される運命から救い出した
改めて、会場に展示されていたのは1959年から1971年まで生産された2代目トヨエースの最終型。10年以上の長きにわたって生産された世代だけに年式ごとのディテールの違いやバリエーションも多いが、こちらの最終型は4灯式となったヘッドライトが大きな特徴だ。
「使われなくなってから30年くらいの間、クルマ屋さんに放置されていたんですよね。その頃からずっと気にはなっていました」
と語るのはオーナーの山崎浩和さん。その時はまだ屋根の下に停められており、程度も比較的良好。件のクルマ屋さんの前を通るたびに「あ、まだいるな」と、気にかけていたそう。
しかしある日、その個体はクルマ屋さんの車両の入れ替えで屋外のスペースに移動され、野晒し状態に。その状態をなんとかしたいと考えた山崎さんは、そのトヨエースを引き取ることを決意。その時はすでにクルマ屋さんの敷地の奥に押し込まれており、すぐには動かせない状況だったので、時間を作っては現場に足を運び、「通い」で整備を進めたという。
「じつはこの個体、1997年の段階ではオリジナルのシングル・ナンバーが付いていたんですよね。もう少し早くレスキューしていたら、もう少し程度がいい状態で入手できたのですが」
ともおっしゃるが、ともあれ山崎さんの尽力によって2代目トヨエースは解体の運命を免れたのである。
かつてのVWオーナーならではの小ワザ
「ボディとフレームを分離してしっかり整備しました。機械的にはまったく問題ない状態です。逆にボディはオリジナルの純正色だったのでそれは大切にしたいと、あえてそのままです。色は褪せてしまっていますが、ボディに書き込まれた屋号なんかも当時のままです」
じつは商用車のみならず、アメ車も好き、空冷フォルクスワーゲンも好きというマルチな趣味の山崎さんは、かつてワーゲンでサーキットにも通っていたという硬派な一面も。
「車内に熱がこもらないように助手席のウインドウに取り付けている格子状のパーツは、じつはVWタイプ2用の復刻パーツです。機械部分はしっかりして、ボディはこんな。まぁ、これもひとつのラットスタイルですかね」
と笑顔で語ってくれたクルマ趣味の達人、山崎さんに救われたトヨエースは幸福だ。
>>>2023年にAMWで紹介されたクルマを1冊にまとめた「AMW car life snap 2023-2024」はこちら(外部サイト)